「……信じられないと思うけど、いま私のスマホにおかしなアプリが入ってるの」
「おかしなアプリ?」
私はポケットからスマホを取り出し、『SHOSHITSU』アプリを起動した。気のせいかもしれないが、一瞬彼が眉を潜めた。心当たりでもあるのだろうかと思ったが、「なんだこれ」と呟く様子を見るとそうではないらしい。
真っ黒な画面の真ん中に、昨日穂花と見た『消したもの:星川学園2年2組遠藤柚乃』『代償:彼女が飼っていた猫を奪うこと』の文が浮かび上がる。
「これは、どういう意味だろう」
「もともとは、『あなたが消したいものを、入力してください』って書いてあったの」
「消したいもの、か。それで春山さんは、“遠藤柚乃”の名前を入力したわけだ」
「……そう。最初はそんなの嘘だろうって思ってたんだ。まさか、入力したものがそのまま消えるなんて思ってなかったから」
「そりゃそうだよね。本当とは思えないな」
神林が自分と同じ意見を持っていることにほっとしつつ、私は続きを話した。
「柚乃からの攻撃で、思ったよりも心が擦り減ってたみたい。だから、ちょっとした気晴らしのつもりだったの。それが、次の日に本当に柚乃が消えてるって知ってパニックになって……」
「それであの時に至るわけだ」
「うん」
神林が柚乃のことを認識していないと知り、雨の中学校をサボって家に帰った日のことだ。
上手く話せたかは分からないけれど、実際に起こったことを伝えることはできたと思う。
神林はしばらくあごに手を当てて、アプリについて思案しているようだった。
漫画やアニメの世界でしか起こり得ないことが、いま現実に起こっている。
これがどういうことか、いくら賢い神林でも論理的に説明することはできないだろう。
「こんなこと言われても、意味分かんないよね。ごめんね、混乱させて」
「何が起きたのかは正直俺にも分からない。大事なのは、これからどうするか、だよな」
神林は冷静に、「春山さんは本当はどうしたいの」と聞いた。それは、彼が私の話を信じてくれているということを教えてくれていた。
「……柚乃を元に戻そうと思ってた」
「元に戻す方法はあるの?」
「あるよ。いま画面に書かれてる通りのことをすればたぶん戻るんだと思う。確証はないけど」
「この『代償:彼女が飼っていた猫を奪うこと』ってとこ?」
「そう。これってたぶん、柚乃が大切にしてたペットを奪えば柚乃が帰ってくるんだと思う」
「つまり、消したものを元に戻すにはそれなりの代償が必要ってことだな。確かに筋は通ってる」
分かっていることを二人で整理したところで、私はもう一度スマホの画面を見つめた。『代償』の二文字が、胸に重くのしかかる。
「でも、本当にいいの? 遠藤柚乃は春山さんをいじめた人なんだろう。春山さんは、彼女に苦しめられてたんじゃないのか。彼女が帰ってくるってことは、また同じことが始まるってことだと思うんだけど」
「そう、だね。そうなんだけど……」
「俺は、遠藤柚乃を元に戻すのには反対だ」
「神林……」
意外だった。彼がここまではっきりと柚乃を戻すことに反対するなんて思ってなかったからだ。
正直私自身、迷っているのは間違いない。理性では「消してしまったものは元に戻した方がいい。まして、一人の人間ならなおさら」とちゃんと分かっている。けれど、心が言うのだ。「遠藤柚乃に戻ってきて欲しくない」と。
だって実際、彼女がいない一日はかなり平穏だった。私は誰からも疎ましがられることも、非難を浴びることもない。もともと柚乃の取り巻きだった女子たちは、私に何の興味も示さない。最初から彼女たちは、柚乃に反抗するのが怖くて従っていただけなんだろう。根っから悪い人たちではないらしい。
この日々が続いていくのなら。
神林とこうして屋上で話したり、穂花とお弁当を食べたり。時々は3人で集まって話すことも増えるのかもしれない。それらの日常のどこにも翳りはない。普通の高校生が皆体験していることなのではないか。
「俺は、春山さんが傷つくところを見たくないんだよ」
ドクン、と心臓が跳ねた。彼と会話を重ねるたびに、彼が私を見る目がだんだんと力強いものに変わっていく。例えば穂花と話をするとき、彼は同じようなまなざしを穂花に向けるのだろうか。
彫りの深い目元を、思わず見つめてしまう。一部の女子たちが、彼のことをかっこいいという理由がなんとなく分かる。外国人風の顔立ちが好きだという人間は多い。けれど、彼の本当の良さは、彼と会話をして初めて知ることができた。
神林とは深い話をすることができる。時には知られたくないこと、言いたくないこともあるけれど、彼だったら笑わずに聞いてくれると信じられるのだ。
知らなかった。神林にこんな懐の深い一面があっただなんて。
「……ありがとう。もう少し考えてみる」
彼の親切を、私は台無しにしてしまいたくない。
できることなら彼の言う通りにしたい。
でも、まだ決心がつかなかった。このまま柚乃を始めからいなかったことにして、平穏に過ごすことを選んでもいいのか。
「分かった。決めるのは春山さんだから、もう何も言わないよ。でも納得のいく答えを出して欲しい。頼むから」
切実な彼の声が、私の胸にすとんと落ちてきた。そうだ、どちらが正しいのか、じゃない。納得のいく答えを出せばいい。バラバラになっていた脳内の声たちが、腹の底へと収まっていく。
「もうお昼休み終わるね。戻ろっか」
「そうだな」
青い空をバックに、神林は立ち上がった。はい、と手を差し出されて私は彼の手を掴む。自然と恥ずかしさはなくなっていた。