翌日、布団から身体を起こそうとしたら明らかに熱がある。私はそのまま学校を休んだ。
何もすることがなく、一日中ひたすら眠ることに専念した。しかしさすがにずっと寝ることもできない。本棚から漫画を取り出して読んでみるも、すでに内容を知っている漫画はものの15分程度で1巻読み終わってしまった。
午後5時になり、玄関のチャイムが鳴った。その頃にはかなり熱が引いていて、起き上がって自分で玄関扉を開けた。
「やっほー元気? て、元気だったら休んでないよね」
傘をさしてドアの前に立っていたのは穂花だった。弱っている時に一番会いたいと思う友達が来てくれたことで、いくぶんか気分が和らいだ。
「穂花、来てくれたんだ。上がって」
寝巻き姿だけど、親友になら見られても大丈夫と思い、私は穂花を家に上げた。
「そういえばこれ、学校に忘れてたよね?」
私の部屋に入るやいなや、穂花が「はい」と私にカバンを差し出した。それは紛れもなく昨日私が学校に置き忘れたカバンだった。私は反射的にカバンからスマホを取り出して、充電器に繋ぐ。
「ありがとう。これがなくて困ってたの」
「いえいえ。永遠があたしのところに持ってきたの。日和に届けてほしいって言ってさ。てか、自分で持っていけばいいのにねえ」
「そうなんだ。まあでも神林が来てくれても玄関開けないかも」
「えーそうなの? 案外お似合いだと思うけどなあ」
「なんの話よっ」
穂花は神林のことを話しだすと普段より楽しそうだ。よっぽど彼と仲が良いんだろう。神林も心を許した相手にはよく喋るみたいだし、私にとっては穂花の方が彼とお似合いに見える。穂花は神林のこと、どう思っているんだろう。今まで聞いたことがなかった。なんとなく、二人の関係には立ち入ってはいけないような気がしている。
「そんなことより日和、大丈夫なの? 昨日いきなり帰ったって聞いてびっくりしたよ。それに今日は熱で休んでるし。なんかあった?」
先ほどまで頬を緩ませていた穂花が、真面目な表情で身を乗り出して聞いた。
「何もなかったらこんなことにならないよね」
「まあ、そうだよねー。真面目な日和が5時間目をブッチしてそのまま早退なんて」
「先生たち、怒ってるだろうなぁ。次学校行くの気まずいよ」
「えー大丈夫じゃない? 先生たちだって、きっと何かあったんだって察してくれるでしょ。不良でもないんだしさ。それよりマジで何があったの」
穂花とは友達になってからなんでも話してきた。お互いの恋バナや家庭のこと。勉強の悩みに人間関係。だからこそいま、穂花が抱いているであろう不安がよく分かる。私が、学校をサボることになった理由を想像できないのだろう。
私は穂花に昨日、一昨日の出来事を話そうか迷った。話したところで信じてくれるか分からない。それに、余計な心配をかけてしまうかもしれない。
私は目の前に座る穂花の目を見た。そこで初めて、彼女の瞳が私を真剣に見つめていることが分かった。穂花はいつからこんなふうに私にまっすぐな視線を向けてくれていたんだろう。先ほどまで悩んでいた自分が恥ずかしいくらいだ。ようやく私は彼女に一連の出来事を話す決心がついた。
「それがね……信じてくれるか分からないんだけど。というか、絶対信じられないと思うけど」
「うん」
私は充電器に繋いだままのスマホを起動する。かろうじて10%だけ充電がたまっていた。
「一昨日、穂花にこのアプリのこと話したよね」
「例の謎のアプリ?」
「そう。穂花と話した日の夜、このアプリにね、とある人物の名前を入力してみたの。今考えればそれが間違いだったんだけど」
「それって誰なの?」
穂花の目が、「早く続きを」と私に訴えかける。しかし私は、ここまで話しておいてその名前を告げるのを逡巡した。私の予想が当たっていれば、きっと穂花も「彼女」の名前を知らないと言うだろう。それが怖かった。
「……」
「日和!」
「……同じクラスの遠藤柚乃」
カチ、カチ、と時計の針の音がやけに大きく響いて聞こえる。穂花の顔を恐る恐る見てみると、不思議そうな表情をしている。ほら、やっぱり。穂花は遠藤柚乃のことを忘れている。別のクラスの人間を知らないこともあるにはあるけれど、あいにく彼女には柚乃の嫌がらせのことを何度か相談している。彼女が柚乃を知らないなんて、ありえないのだ。
「穂花、遠藤柚乃のこと、知らないんでしょう?」
その場で固まっている穂花に、私はとどめの一言を放った。
大丈夫だよ。全部分かってたことだから。
穂花は何かとんでもない罪を犯してしまったかのように瞠目していた。
「いや〜、びっくりだね。あたしにもまだ知らない同級生がいたなんて!」
その場を明るくしようと無理に明るい声を出す穂花。私の肩をポンポンと叩く姿は、いつものテンションの高い穂花そのものにも見える。
「本当のことを言うとね、穂花は一昨日まで遠藤柚乃のことを知ってたんだよ。でも、一昨日の夜、私が『SHOSHITSU』に『遠藤柚乃』と入力した。そしたら次の日には柚乃は学校に来なかった。これって、アプリが柚乃を消しちゃったってことよね……? しかも、その場から消えたというよりは、最初からいなかったみたいになった」
「そんなことあるわけないじゃん」
「私もそう思ってた。でも、神林も他のクラスメイトも柚乃のこと本当に知らないみたいだった。だから穂花にも聞いてみたけど、やっぱり同じ反応で。何かの間違いだって思いたかったけど、どうやら本当みたい」
「……」
受け入れられない、というのが正直な気持ちだろう。まして穂花にとっては、いくら「遠藤柚乃が消えた」なんて言われても、その人は元からいなかった人で、いまいちピンと来ていないに違いない。もし逆の立場だったら私だって今の穂花と同じ反応をするだろう。
「信じられないよ。でも、日和が嘘なんかつくわけないし、あたしは信じる……」
「ありがとう。そう言ってくれるだけでも救われるよ」
完全に受け入れられたわけではないだろうけれど、私のことを理解しようとしてくれた穂花に感謝した。
私は立ち上がって部屋のカーテンを開け、「お茶入れてくるね」と部屋を出た。熱はもうすっかり引いていた。朝に比べると身体がかなり軽い。
お茶を持って部屋に入ると、窓の外で雨が上がり晴れ間が見えている。梅雨の間に時折覗かせる晴れの空は、普段の晴れの日よりも温かく見える。