午後の授業を受けている間も、私の心はまったく授業に向いていなかった。
古文の先生が難しい単語を説明して、「これ次のテストに出るぞ」と教えてくれるのに、私はメモすらしなかった。
6時間目の授業まで受けたところで、ようやく意識が頭に戻ってきたという感じ。長かった一日が終わり、教室の中は部活へ行く者、そそくさと帰宅する者、残って友達と駄弁る者、と普段と変わらない風景が広がる。
私もいつもと同じように、荷物をまとめ、下駄箱で靴を履こうとした。
「春山さん、ちょっと待って」
誰かに呼びかけられて振り返る。振り返らなくても、声で誰かは分かっていたけれど、彼が肩で息をしながら手に持っているものを見て私は思わず彼を凝視していた。
「神林、それどうして」
「さっき、北館四階の男子トイレで見つけたんだ。あんな遠いトイレ、誰も使わないだろう? もしやと思って探しに行ってみたら見つかってよかったよ。それ、明日も使うだろうし」
はい、と神林は私に上履きを渡してくれた。少し汚れてはいるが、もともとそんなに綺麗じゃなかったから、特に危害を加えられている様子はなかった。
「……ありがとう」
感謝よりも先に驚きが表情に出てしまっていた。「ありがとう」がぎこちなかった。
彼は私が上履きをちゃんと受け取ったからか、安堵の表情を浮かべる。
「じゃあ俺、部活行くから。また明日」
「うん、またね」
エナメルのカバンをよいしょっと肩に掛け直し、彼は走って体育館へと駆けていった。早くしないと、遅刻してしまうのだろう。私に上履きを渡すためだけにここまで追いかけてきてくれた。学校の隅々まで、わざわざ探しに行ってくれた。これまでよく知らなかった彼の本性が、だんだんと輪郭を帯びてくる。
「ありがとう」
体育館の方を向き、誰もいない空間に向かってもう一度感謝する。明日またきちんとお礼を言おう。今日はまだ、彼のくれた親切を噛み締めておきたいから。