「うぉっ!」
リクスは一気に前のめりとなり、地面に崩れ落ちる。
「いでで……」
「あ、ごめんごめん脅かすつもりはなかったんだ」
ライトの光がリクスの眼を襲い、手で光を遮るようにして声の方を見る。
そこにはヒューイが立っていた。
「……ヒューイさん」
「ここ街の中でも結構端の方で、今は街灯とかほとんど無いし物資配給の場所まで遠いから誰もいない。よくこんなところに来れたね」
差し出された手を掴み立ち上がり、汚れをはたく。知っている人がいるというのは心強いなと思い、つい気が抜けてしまう自分が現れた。
「大丈夫かいリクス君」
「あ、はい」
と、ここでスラム街で見たローブでない化け物を思い出す。ヒューイなら何か知ってるだろうか。
「あのヒューイさん、ちょっと気になる奴がスラム街? の所にいたのですが」
「グスッ」
「ん」
どこからか涙を流し鼻をすする音が聞こえた。2人は静かに歩いて音の在処を感じ取ろうとする。
「誰か泣いてるんですかね」
「……そうだね。誰かここに住んでるのか?」
「見つけた。幼い子です」
リクスはまだ10歳前後と思われる風貌の少女を見つけた。少女は庭の壊れたベンチの上で丸く縮こまり、腕で顔を覆い隠してすすり泣いていた。
この歳で逮捕されることがあるのか? そんなの聞いた事が無い。仮に何かしても少年院に行くのでは?
ヒューイは腕を組んで訝しむ様子を見せている。
「何でこんな所に……」
リクスも色々と考えてはいたが、流石に放ってはおけなかったため少女に近づいた。
「大丈夫かい?」
「グスッ、パパとはぐれちゃったの……グスッ」
三つ編みでワンピース姿の少女は、涙と鼻水でびしょ濡れの顔をリクスに向ける。幼くまだ穢れを知らないような純真無垢の顔だった。リクスは優しく言う。
「どんな人か教えてくれる?」
「……わかんない」
少女は弱弱しく言う。
不安げな表情にリクスも思わず泣きそうになった。不安な感情は伝染するのか、助けてあげたいと強く思った。
「……」
ヒューイは一向に近づく気配を見せずこちらを見ている。幼い子供が苦手なのだろうか。
「とりあえず、人がいっぱいいる所へ行こうか。パパもそこにいるかも」
「リクス君離れろ!」
ヒューイの絶叫が木霊する。聞いた事のない大きな声にリクスは驚く。
「え」
その瞬間、全身に鳥肌が立った。
振り返ると少女の骨という骨が一気に粉砕する歪音が響き渡り、柱を失った身体がぐちゃぐちゃに崩れ落ちていく。
「ひっ!」
背中だった場所に切れ目が入り、異常に発達した手が突き破るようにして姿を表す。
それはぶらぶらとわざとらしく揺らされ、まるで近くに獲物がいないか確認しているようだった。リクスは大慌てで遠ざかり、ヒューイに合流する。
「あ、あれはなんですか。女の子はどこに」
まさかさっきのが追って来たのか。
リクスの恐怖は膨れ上がり心臓が急速に動く。
ヒューイは苦悶の表情を見せ声を震わせながら言った。
「あれは……ヴァラリアンだ。人間に擬態できる」
「ヴァラリアン?」
「この街で出会ってはいけない者だよ。またこっちに来たか。逃げよう逃げれるか怪しいけど逃げよう」
「はい」
ヒューイは全速力で走り出し、それに続いてリクスも駆けた。背後の気配が急速に強さを増し、背中が刺されたように痛む。
恐らくまじまじと見られているのだろう。視線が物理的に痛い。泣きそうなほど突いてくる。傷一つ無い筈なのに、死にたくなるほどの苦痛を感じる。
「アスタイルキシカリコルデーティネシタ!!!!!」
少女の声で意味不明の言葉を言いながら気配が近づいてくる。ほとんどの部位が心霊写真でいうオーブの様なものに包まれ確認できないが、腕は三本以上あるように見えた。
刹那、左右から鋭い風が迫る。リクスは首を大きく下げて紙一重で躱す。僅かに反応が遅れれば危なかった。恐怖がより深く高められていく。
「大丈夫かリクスく、ってもうここまで!」
逃走を始めてわずか数十秒、ヴァラリアンはリクスに張り付く寸前まで接近していた。
両腕を左右高く引き上げ、リクスの首を貫かんとして振り下ろされる。
瞬間、リクスはヴァラリアンを足場とし前方へ吹っ飛んだ。
ヴァラリアンの致命的な攻撃は空振る。
だがリクスは背中に強烈な痛みを感じ、地面に倒れ込んだ。
背中がひんやりと冷たさを増していく。
間髪入れず風が吹く。リクスは苦悶の表情のまま横へと転がり避けた。
ヴァラリアンはぎこちない動きでリクスに顔を向ける。
「ぐ……」
「くそっ!」
ヒューイは近くの石を掴んでヴァラリアンに投げつけるが煙のようにすり抜ける。
ヴァラリアンは頭を上げ絶叫する。
「イクトッサリカルデイスィレクターラ!!!!」
背中から新たな腕を出現させ、それをあばら骨を通り前へとベルトコンベアのように移動させる。その手には血の付いたハンドソーが握られていた。
リクスは逃げようとしたが、服が柵に引っ掛かっており上手く動けない。破く時間も無さそうだ。
死ぬ。
「まずっ」
「リクスくん!」
ヴァラリアンはリクスを目掛けて腕を振り下ろした。
「やめなヴァラリアン」
が、リクスの命は絶たれることは無かった。
恐る恐る目を開けると、そこにヴァラリアンの姿は無かった。逆に横から足音が聞こえてくる。
見ると、40代後半程の風貌で無精ひげを生やしたスーツ姿の男がこちらへ向かってきていた。
「誰だ」
ヒューイが警戒しながら問う。男は頬をポリポリと掻いて答える。
「俺? 俺はシュビナードっていう名前のどこにでもいる普通の中年親父だ」
「シュビナード!?」
男が名乗った途端ヒューイの顔が厳しいものとなった。
それを見ながらも男はふわぁ~とあくびをして興味無さそうに言う。
「あ? 俺を知ってんのか? 有名人だねぇ俺」
「鍵を! 鍵をよこせ!」
「やるわけねーだろ馬鹿が。俺は管理者側の人間だ。お前ら罪人の手助けなんかするかよ」
ヒューイは拳を強く握りしめてシュビナードと名乗る男に迫っていく。
「お? 力づくか? いいぜ。だがな、やるってんならヴァラリア~ンッ! ってまた呼び出すぞ。いいのか次は助けねぇ」
シュビナードはなまめかしく脅してくる。
一見自分を上に見せたいがための発言とも取れる言葉。だがヴァラリアンをどこかへ消したのが本当である以上、呼び出すというのも嘘ではない可能性が高い。感情任せで動くのはリスキーだ。
「ヒューイさん!」
リクスは的確に服の引っ掛かりを取ると立ち上がり、冷静さを欠くヒューイの肩を掴んだ。
「僕に触リクスくん……」
手を振り払おうと肘が突き出されたが、寸でのところで止められる。ヒューイは冷たい表情のままリクスを一瞥した。
「……怪我は大丈夫なのかい」
「あ、はい……なんでかは分かりませんが……」
背中の痛みや冷たさはいつの間にか消えていた。恐る恐る擦っても服の破れ一つ無い。何が起きているのか現実を何一つ理解できないが、一旦は助かった事実に安堵している。
「怪我なんてしてねぇ。そうだろ?」
シュビナードが含みのある言い方で笑いかける。
「……何をしたんですか」
リクスが訝し気に睨むと、シュビナードはきょとんとした表情で首をかしげた。
「なーんにも? 強いて言うならお前は人生において”一度”だけ訪れる幸運に恵まれたってぐらいだな。だがそっちのヒューイさんが下手な真似したら何が起きるかは分からん」
脅すように薄気味悪い笑みを浮かべるシュビナード。ヒューイはシュビナードとリクスを交互に見て沈黙し……。
「……ちっ!」
近くの小石を蹴り飛ばして、ふうーと強く息を漏らした。
シュビナードは腕を組んでにやにやとその姿を笑っている。
「6秒ルールだぜヒューイさんよ。怒り任せに動いてもろくなことは無い。アンガーマネジメントってのは大事だこの街では、特にお前のような奴にはな」
軽々しい態度のシュビナード。こちらに何かする気は無いようだが、一体何者なのか。そして、リクスにとってはやはりヒューイが豹変した事が気になった。
「……鍵とは?」
シュビナードは呆れたようにボリボリと音を立て後ろ髪を掻きむしる。
「おいおいそこの兄ちゃんも鍵目当てか? やめときな。確かにあれがあればここから抜け出すのは簡単だが渡さねぇよ。例えあいつの弟にお願いされても聞く気はないね、ま、弟くんは別の目的があるようだが」
あいつの弟という言葉。この男とそれなりの仲の知り合いがこの街にいるのか?
「あいつ?」
「あいつはあいつだ、ちなみにあいつをあいつって言えるのは俺だけな。それ以外の奴があいつなんて言ったらここに送られちゃうから気を付けろよーあいつまじ怖いんだよあいつ目つきも鋭いしあいつ嫌いなもん多いし」
早口であいつのオンパレード。わざわざ連呼して強調するあたり、こちらを馬鹿にしているのか何か教えようとしてくれているのか、リクスは考えたがこの態度からして明らかに前者だなと思考を止めた。
「ヒューイさん帰りましょう。あんまり遅くなるとまたローブに襲われたとき」
「ローブ? 何のことだ? あ、もしかしてお前ら、あれのことローブって呼んでんのか!? ま、そんなもんかー!」
急に笑い焦げるシュビナード。本気で面白かったようで長い間大声を上げていた。この男はあれの正体を知っているのか?
「不快だシュビナード。鍵渡す気がないなら消えてくれ」
ヒューイが敵意をもって言い放つ。
「お? おやおや嫌われたもんだ。じゃ、帰るわ」
シュビナードは後ろを振り返り立ち去ろうとする。が、何かを思い出したのか顔だけこちらへ向ける。
「あ、そうそう。いいこと教えてやるよ。奴の唯一の救いは結果をすぐに求める事だな。長い時間をかけてグループに溶け込まれたら見分けがつかずもう終わりだが、奴はすぐに正体を現して殺しを始める。つまり、身体能力はともかく擬態能力はそこまで危険じゃあない。なにせ爺さんの失敗作なんだからな」
「爺さん?」
「こっちの話だ。あばよ兄さん達! 若いうちに女と楽しんだほうがいいぞ。年取ってからは長くもたねぇ」
手を振って歩いていくシュビナード。するとリクスはふと期待が沸き起こり、思わず声を出した。
「あ、あの!」
シュビナードは立ち止まり、わざとらしく大きなため息をつく。
「……なんだ兄ちゃん。女紹介しろったって無理だぞ? 今は出会い系ってのがあるだろ」
「ウィジアって知ってますか?」
「知らねぇな。俺はエロいねえちゃん達のことしか興味無いんでな」
「そ、そうですか……」
この人物ならもしかして……と思ったが駄目だったか。
「じゃあなー。ま、ローブちゃんはお前らを殺す気無いから安心して捕まりなー」
「それってどういう」
男はまだ対して歩いて無いのに既に姿が無かった。文字通りヴァラリアンのように綺麗に消えている。何か訳アリのようだが本当に人間なのか? 一体何者なんだ……。
ヒューイも驚くそぶりはなく、まるでどういう相手か知っていたような感じだった。
リクスは意を決し聞くことにする。
「ヒューイさん、あの男何者なんですか」
ヒューイはしばしの沈黙の後重々しく口を開く。
「あいつは……この街を自由に行き来でき、ヴァラリアンと対話できる唯一の人間だ」