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第2話 ローブで覆われた何か

「分かりました失礼します! また後で!」


 リクスは立ち上がって軽く会釈する。


「えっと」


 突如頭が混乱した。


 適応しようとした。適応しようとはしたのだが、今置かれている自分の状況が分からないため、本当に逃げる必要があるのかというのが正直な話だったのだ。例え逃げねばならないとしても、どこに行けばいいのかなんてゲームじゃないのだから分からない。


 心臓の鼓動が速まっていくのを感じた。焦りの感情が膨れ上がっていく。


「あっちへ行きなさい! 入り組んだ道があるから撒ける筈!」


 リクスに助け船を出すように、老婆がある方向を指差した。


 ハッと現実に戻り慌てて顔を向ける。と、同時に背中にひんやりと不吉な凬が吹いた気がした。途端に全身に鳥肌が立つ。脳から逃げろと指令が出る。


 だが、身体は好奇心に打ち勝てず後ろを振り返った。馬鹿だと思いながらも見てしまった。


 ……特に何もいなかった。


「えっと誰もいななんだあれ」


 顔を戻そうとした途端。


 何か見えた。


 50m先ぐらいから、渦のような何かが不可解に浮遊しているのが見えた。


「浮いてる……?」


 渦を包み込むように濃い霧のようなものが発生しており、周辺の人々は寝ていた者でさえ跳ね起きて一目散に逃げていった。明らかな異常事態が起きているようだ。


「無法地帯になり切れない理由さ! 早く逃げなさい! 狙いはあんただよ!」


 老婆が叫ぶ。と、その渦は隠した何かをお披露目するように霧散していった。


 曖昧だった視界の中、その姿が徐々に明確化されていく。


 首から上は深々とフードが被られ隙間をボロ雑巾のようなかびた布が覆い尽くす。


 上半身は人間とは言い難い歪みを持ち、まるで人体の骨が逆向きに組み直されたかのような奇怪さがある。対して腕は骨肉が無いのか平べったく垂れ下がっていた。


 下半身は極端に肥大しているだけでなくブクブクと酸のようなものが泡立つ様子が見える。足はまるでキャタピラのように変形していた。


 そしてそれらを覆う、わざと見せているのか透明なローブ。


 何なんだこいつは……!?


「ヤヤヤヤミミミショショショタタタタイイイ」


 突如不快な高音が鳴り響く。リクスは慌てて耳を塞いだ。だがハッキリと聞こえてくる。これは耳から入ってくるのではない……どうやら脳内に直接入り込んできているようだ。非現実的で寒気が止まらない。身体のありとあらゆる臓器が拒絶する。もうやめてと懇願する。


「ヤヤ「ヤミ「ミ」ショタタタ」イ「イ」イ」


「ヤミミヤヤショショミミミショタタショショタイイイタタショショタイイイイ」


 声はこちらの要求を一切無視しひたすらに同じ文字を繰り返し放ち続け、やがては幾重にも重なり何て言っているのかさえ聞き取れなくなる。だが声は反比例するかのように明るさを増していく。


 ――まるで新たな仲間を見つけた喜びを表現する獣達のように。


 ローブは微かに動いた。


 するとほぼ同時、垂れ下がっていた皮だけの腕がゆっくりと手招きを始めた。


 冷や汗がだらだらと流れ落ちる。全身に鳥肌が立つ。こればかりは想定外どころの話ではない。もう恐怖を通り越して笑えてくるレベルだ。被虐志向の妄想だ。


「オイデ」


 聞こえた。


 カリ……カリ……カリ……


 ゴリゴリゴリゴリギィィイイィイイイイイヒヒヒヒヒヒヒ


 オイデオイデオイデオイデオイデオイデオイデオイデオイデ


 足が地面を一気に蹴り、重々しい足音が一瞬で繋がり始める。まるでこちらとローブが見えない力でひかれあうかの如く、一気にこちらへと向かって突き進んでくる。距離が急速に縮まる。


 今すぐ逃げなければ。


「クソが!」


 間一髪リクスの身体は現実を理解した。


 身を翻し持てる全力で駆けた。


 冷たく何故か温かみもある気持ち悪い風が重りのようにのしかかってくる。だが動かした。動かさないともう終わる未来しか見えないのだ。死んでも絶対逃げないといけないのだと分かる。


「はぁ……はぁ……はぁ……!」


 平らでは無くゴロゴロとした足心地の悪い道を、転げそうになりながら精一杯走る。


 全力で全力で全力で街を駆けた。


 がむしゃらにただただ道を一直線上に走り続けた。


 呼吸が徐々に乱れ始めてくる。


 慌てた不自然な走りを繰り返していた事で、体力の減少が著しいようだ。何とかフォームを整えた方がいい。だがそんな悠長な事やってる場合でも無い。


 ひたすらに足を動かした。


 人気の無い寂れた家屋を見つけ、右に曲がった。だがドアは開かず庭を経由して柵を飛び隣の通りへと移る。左へ向き再度ジグザグに通りを走り回った。


 もうどれくらいの時間走っていたのかも分からない。


「いつまで追いかけてくんだよストーカー野郎!」


 いつの間にやら老婆のいた場所とは大きく離れており、ビル郡のような開けた場所へと来ていた。気配は一向に遠ざかってくれる様子がない。


 だが急接近することもなく、一定の距離を保って追いかけてきているようだった。まるでこちらの体力が無くなり静止するのを待ちわびている、そんな厭らしい感覚。


 そして道中、多くの人々とすれ違った。


 瞥見すると、皆はこちらを見るや否や端に寄り、身体を震わせ視界を閉じていた。何が何でも関わりたくないという強い意志が感じられ、人によってはまるで自分が狙われると思ったのか、役目を終えた電柱によじ登る者まで見えた。


 ……ふと思う。


 これの終わりはいつだ。


 もしこれが延々と続くのなら、遅かれ早かれ捕まるのは確実。永遠の追いかけっこなど無理ゲーでしかない。しかしそれは出来ない。ここに来たのは目的を果たすためでありそれ以外の理由など無いのだから。捕まって殺されるのか食われるのか分からないが、絶対に捕まるものか。


 捕まってたまるか!


「こっち来て!」


 必死に考えていると、ふとそんな声が聞こえた気がした。


 声の来た方角と思われる場所へ顔を向けると、路地からひょっこりと顔を出す少女が見えた。


 刹那。


 一瞬だった。一瞬だけだった。だが、こちらに向けられていた痛く鋭い視線がずれたように感じた。


 声に反応したのか? しかし少女が呼んでいるのはこちらのようで。


「分かった!」


 全速力で走り路地へと向かう。


 それを見た少女は奥へと消えていき、付いて来いというのかあからさまな足跡を付けていった。


 路地裏はまるで迷路のようにかなり入り組んでおりかなり狭まっている。老婆の言っていた場所はここか?


 右に曲がり乱雑に散らばるゴミ山を飛び越え左のぬかるんだ道に足を奪われそうになり、と想像以上に多くの障害物に阻まれながらもリクスは上手く乗り越えていく。


 地面や建物の壁から漂う悪臭は身に恐怖と勇気を与えてくれた。

 壁に飛び壁を蹴り壁を走る。人間追い詰められるとどうとでもなるようで、こんな時に不謹慎だが絶好調と言えるコンディションだった。


 やがて大きなゴミ集積場跡のような場所へと出ると、先程の嫌な気配は無くなっていた。


 ひとまず撒いたといえる状況なのかと思った。警戒は勿論緩めないがリクスはホッと一息つく……と空から少女が降ってくる。


「うおっ!」


 思わず声に出してしまいすぐに口に手をやる。少女はリクスの後ろに着地して言った。


「ここいーでしょ? いっぱいビルやらなんやらがひしめき合ってるから追手を撒くのに最適スポット。ま、障害物も大量だから一度でも転べば終わりだけどねー」


 少女はズボンの汚れをはたきながら立ち上がる。


「えっと君は……」


 少女は明るく可愛らしい顔をこちらに向け、戦隊ヒーローの様なポーズを見せた。ボブカットの髪が横にふわりと揺れる。


「善人お助けヒーローミロナーマン! だよ!」


 リクスの口がポカンと開く。


「は、はい。ミロナ、さんですね」

「ノってくれないのか」

「ミロナーマンありがとうさっすが正義の味方来てくれるって信じてたよ」


 棒読みで返すリクス。すると、ミロナと名乗った少女は口をすぼめて納得がいかないような表情を見せた。


「ノリ悪いなー」

「さっきまで何か変なのに襲われてたからさ。今もいつ来るかと冷や冷やで正直気を抜く余裕が無いんだよね本当に」


 事実だ。どちからといえばノリが悪い人種ではあるものの、一応相手の言葉に敬意を払うことぐらいは出来る。でも今は恐怖の方が強かった。必要な現状を何一つ理解できていないのだから。


「ちなみにあの変なのはね、別に目が見えてるわけじゃなくてー。うーんこの言い方いいのか分からないけど、罪を犯した際に発せられる気配? に反応するみたいなんだよねぇ」

「気配?」


 目が見えないから足跡を付けて問題が無かったのか。だが気配とはなんだ。


「罪を犯すと普通の人と違う気配になるみたいだよー。詳しい事は分からないけどね」


 その言葉にリクスは疑問が浮かぶ。


「あの、ここの人達って皆……何かしら問題起こしてるよね。何で俺だけが襲われたの?」


 何者かは周りに罪人が多くいるにもかかわらず、何故か自分だけを目的としていた。他者であるミロナに一瞬ずれたようには感じられたものの、何か条件的な理由があるのは間違いない。


「ここで何かするのが条件だよー」


 ミロナはサラッと答える。その曖昧な情報にリクスは苦笑い。


「ここで何かって誰が善悪の判断するのさ」

「アウトかどうかはさっきの化け物が判断するの」

「意味分からないんだけど」


 あの人間なのか幽霊なのか分からない超常的な何かが善悪の判断など不可能だろう。


 しかし、自分のみを狙っていたのもまた事実……。


 何らかの条件があるのだろうか。至る所に隠しカメラがあって常に監視されている? それかあのローブの化け物自体にレーダーか何かが取り付けてあり、自分たち罪人にもICチップが組み込まれた? ……いやあれはしただけ見れば機械仕掛けに見えなくもないが、全体を見ればわかる。人間の作り物では無い。正真正銘の化け物だ。なら何を以て判断している……?


 疑問は思考するたびに深まっていく。


「でもそれがここの常識だから。あり得ないから、信じる材料が無いから……って無視していいルールでは無いと思うよ? なぜそうなってるのかなんて誰も分からない。ただそれが現実としてあり、その対抗手段も存在しているっての重要じゃない?」


 老婆が言っていたような言葉を言うミロナ。


「まぁ、確かにね」


 上が何を考えてこの街を刑務所代わりとしたか元々この場所はなんだったのかなんてこの場にいる誰もわからない。ハッキリしているのは先ほどのローブが危険ということだけ。確かにミロナ達の言う通りだった。


「とりあえず、君はあれに見つかったらまた追いかけられる、捕まったら人生終わりってことだけ覚えておけばいいよ。なになに、あのおっそろしい視線浴びたら寝てても気づくから安心しなよ」


 ミロナはグッドポーズでにやけ顔を見せる。


「……安心していいのそれ」

「ま、とりあえず大丈夫大丈夫。君みたいな境遇の人間は多くは無いけど多少いるし。あの浴場管理してるギャングの人も数人私達と同じだしね。でも普通に街歩いてる。表立って動いてても生き残ってる人は生き残ってるのよー!」

「う、うん」

「で、さ!」


 ミロナは前かがみになりこちらに顔を突きつけてきた。


 ふと見せた谷間がリクスの下半身を刺激し、リクスは慌てて視線をずらす。こんな所でもそういう慾はあるのかと自分を恥じた。なんて馬鹿馬鹿しいんだ。


「君かなり足速いよね。急に変なのに襲われたのに全然挙動おかしくならないし。皆最初はビビって上手く走れない人とかいるのに。初回で捕まっちゃう人も多いんだよ?」


 変な目で見られたとはつゆ知らず、ミロナはリクスの走りに感心していた。


「まぁ、多少は知ってたっていうのもあるけど……」


 基本適応力はある方だと思う。


 リクスは予想外の事態が起きても基本的には必要以上に慌てふためく事も無く大抵の事は冷静に対処できた。化け物に対してはかなりビビっていたと思うが、リクスは首を振りその恥を消し去る事とする。


「ね、君もここから出たい?」

「ま、まぁ出たいけど」


 出るとは何を指しているのかは分からないがとりあえず返答する。


「じゃあさ! 私達の仲間にならない!?」


 そう言い終えた瞬間、ミロナは強い表情で後ろを振り返った。


「まーずいバレた」


 ミロナの向く方へ視線を移すと、ローブがこちらを見て静止していた。

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