「わたしは、父の束縛から逃れたくて、ずっと異世界転生のラノベに逃避していました。でも、自分のなかのまじめな性格が、ラノベに逃げている自分を許せるはずがなかった。そのズレにずっと、ずっと、苦しんでいました。でも、教室のなかで鯉幟くんを見つけて……」
雛祭さんが、すっ、とおれを見つめる。
「教室で、ラノベを呼んでいる鯉幟くんはわたしのなかの灯台でした」
「えーと、それって、褒められてるのか?」
「当然です! あたたかな灯りは、教室のなかで、ひときわ輝いていました。わたしには、鯉幟くんがラノベを読んでいるすがただけが救いだったんです」
「うーん、嬉しいような、なんか、複雑な気持ちだな……」
ラノベを読んでいただけで、こんなにも巨大な感情をブツけられると、逆に冷静になってくるな。
でも、こんなかたちでも雛祭さんの助けになっていて、嬉しいことには変わりない。
「現実から逃げたくて逃げたくて……生まれたのが『イット』の呪文。これを唱えたら、『復活できる』。作ったときに考えていたのは、『今のわたしが消えて、新しい自分になるため』の呪文でした。まさか、本当に記憶喪失になってしまって、運よく記憶を思い出すカギになってくれるとは、思いませんでしたけど。……ラノベ脳、ってやつですかね?」
ふふ、と笑う雛祭さん。
「わたしが消えたら、鯉幟くんに唱えてほしい―――そんなことを考えていたりしてました。『イット』はわたしの考えた異世界語の呪文、『ひな』は現実世界での呪文……なんて、細かい設定をつけたりして……」
「雛祭さん……」
「ふふっ、本当に唱えてくれましたよね。わたし、鯉幟くんに助けられてばかりです。ずっと、ずっと、わたしのことを助けてくれています」
少し涙ぐみながらも、雛祭さんはいった。
違う。それは、ぜったいに違う。だって、おれのほうはもう、以前のおれじゃないから。
雛祭さんと過ごして、おれは変われた。以前よりも、ずっといい方向に変わったと自覚している。
人と関わるのも、そう悪くない。そう思えるようになったのは、雛祭さんのおかげだ。
以前のおれだったら、沖縄弁を人前で披露することなんてぜったいになかったし、誰かの親に逆らおうなんてことしなかった。
誰かと、閉園間際の公園へデイキャンプに行こうなんて、いわなかった。
ぜんぶぜんぶ、雛祭さんのおかげなんだ。
「雛祭さん」
「はい」
「イチョウって、なんだったっけ。ぎ……ぎ……」
「ギアル、ですよ」
長い黒髪を風になびかせ、背筋をピンとさせている、雛祭さん。もう、ぽわぽわの雛祭さんは、そこにはいない。
なのに、エーデルリリィの言葉が出たことに、おれは感動すら覚えていた。
「ずっと、鯉幟くんとラノベを話をしたかったんです」
雛祭さんは、穏やかに鈴が鳴るような響きで、いう。
「わたしが作った異世界をわかってくれるのは、鯉幟くんだけだと思っていたから」
落ちていたきれいなイチョウの葉をひろい、見つめる雛祭さん。
「オリオン座流星群は、願いを叶えてくれたみたいです」
雛祭さんが手首につけたブレスレットを見せてくれる。ピスプル―――シーグラスのきれいなブレスレット。その銀のプレートには『49114』とあった。
「『マシュかわ』のもうひとつのエンディングが書かれた作者のSNS……その記事に、最近追記があったの、知ってますか?」
「それは知らない、な……」
「この数字の意味ですよ。ちゃんと、答えがあったんです」
いたずらっぽく笑う雛祭さんは、おれへのネタバレが楽しくて仕方がないようだ。
「それは、『4』を『A』、『9』を『R』、『1』を『I』とした場合に見えてくる単語にあります」
「……『ARIIA』……『アリーア』?」
「これは、エーデルリリィ語で『帰還の呪文』のようです」
「待って。この仕掛けって昨日、雛祭さんから聞いたよな」
「そうですよ。わたしが、パクったんです。『マシュから』から」
あっけない事実に、おれは拍子抜けしてしまった。
「なんだよ、それえ」
「いけない。パクリはだめですね。リスペクトだとか、オマージュだとかの表現のほうが適切でしょうか」
「はは……まじめだね、雛祭さん」
そういうと、突然雛祭さんがムッとしてしまう。
「いいましたよね」
「何が?」
「かな、って呼んでくれるって」
「あ、ああ……」
一気に、汗が噴き出る。
なんか、記憶を取りもどしたはずなのに、ぽわぽわのころの雛祭さんのようなことをいうなあ。
「覚えてますか?」
「何を?」
「わたしたち、エーデルリリィの婚姻のときの儀式をやったんですよ」
「なっ」
そんなこと、覚えてたのかよ……!
火が出ているんじゃないかと思うほど、とんでもなく顔が熱い。
どうして今、そんなこというんだ。雛祭さん。
「あと、わたしが異世界に帰ったら、鯉幟くんにまっ先に送るっていいましたよね。ピッパムの花を」
「それは……エーデルリリィの花じゃないよな……?」
「あら、さすがですね。ご存じでしたか。そう、わたしが考えた花ですよ」
にっこりと、雛祭さんがほほえむ。
「ピッパムの花言葉は、『あなたとずっといっしょにいたい』です」
「なっ……え? えーと……」
「透き通るような水色の、きれいな花ですよ。開花するとき、とてもいい香りがするんです。清潔で、落ち着いていて、爽やかな香り」
「で、でも……爆発するんだよな……?」
「ええ、体温でね。ですから、そんなに体温をあげてはだめですよ」
雛祭さんの手が、おれの手にそっと触れる。
だめだ、手汗がやばいんだ。触られたら、とんでもなく恥ずかしい。
「爆発、しちゃいます」
「じゃあ、ちょっと離れて……くれる?」
「鯉幟くんがくれた、わたしのニックネームを呼んでくれたら、考えなくもないです」
「わ、わかった。わかった」
おれは、必死に深呼吸をして、相手のニックネームを何度も頭のなかで反芻した。呼ぶためのイメージトレーニングだ。
そして、追いこみをかけるように、「すう」と息を吸って、ぎゅっと目をつむった。
「か、かかかかな……ちゃん」
「ふふふっ、はい。大知くん。嬉しいです、呼んでくれて」
「んなっ、今、今の……」
「わたしだって呼びたいですよ。大知くんの名前」
「そ、そう、そうなの……?」
「そうです! だって、ずっと待ってたんですから。あなたとこうして、話す日を」
雛祭さん―――かなちゃんは、おれの手をぎゅっと握って、あの花がほころぶようにほほ笑んだ。
「記憶喪失、からの『アリーア』。星に届いて、よかったです」
そうか、ようやく気づいた。
あの呪文は、ここに帰ってくるための呪文だったのか。
「異世界転生―――しにきたかいがありました!」
*
修学旅行の帰り、雛祭さんの記憶が戻ったことは、その日のうちに知れ渡った。それも、雛祭さんが校舎裏から戻ったとき、雛祭さんのお母さん・つらなさんに、彼女が直接いったのだ。
「お母さん。わたし、記憶がもどったみたい」
それには、クラス中が、水木先生が、教頭先生も驚いたし、なによりつらなさんが、とても安堵した表情をしていた。
「そう。よかった。本当に……」
次の日の朝、教室に入ると、すでに雛祭さんはクラスの連中の輪のなかにいた。
「記憶、戻ってよかったねえ」
「こっちの雛祭さん、すでに懐かしい~!」
「記憶なかったときのノートとか、大丈夫そう?」
「はい。記憶がなかったときの記憶はあるので、問題なさそうです」
「それさあ、なんだか、ややこしいいい方だねー。ちかちゃーん」
快人のセリフに、周りの男子たちが大笑いする。
すでに大いに盛り上がっているようだ。
雛祭さんは、まじめな顔をして、快人を見ている。
「記憶は戻ったのに、まだ『ちかちゃん』呼びなんですね」
「えっ、だめー?」
「もちろん、だめではありませんよ」
「んじゃあさあ、みんなもちかちゃんって呼ぼーぜ。雛祭さんなんて、文字数多すぎじゃん?」
「たしかにな!」
快人の提案に、クラス中が賛成する。
雛祭さんは快人の一声で、『ちかちゃん』になってしまった。
なんでそんなに気軽に女子の下の名前を呼べるのか、理解できない。
おれなんて、まだ迷ってるのに。
みんなの前で、『かな』呼びをすることを……。
あっというまに下校時刻になってしまったが、情けないことにおれは今日、雛祭さんと一度も会話できなかった。
みんなが雛祭さんに話しかけるから―――なんてのは、いいわけだ。みんながしゃべっている輪のなかに入って行けばいいだけのことなのだから。そうすれば、彼女を会話できたのに。おれはそれをしなかった。
成長してると思ったのに、ちっとも成長していなかった。
話しかけに行けると思ったのに、足が動かなかった。イスから立ち上げれなかった。
雛祭さんのことをチラチラと横目に見るだけの、キモ男でしかなかった……。
休み時間、何度か、快人やみくりがおれのほうに歩いてきたことは気づいていた。きっと、おれに「雛祭さんに話しかけなくていいのか」といいに来てくれたんだろう。
だが、おれは廊下に逃げた。チャイムが鳴るまで、屋上への階段のすみっこで丸まっていた。
授業がはじまったら、こそこそと教室にもどった。
情けない。
いくじなしの、オタク野郎がおれだ。
「大知くん」
顔をあげると両手を後ろ手に組んでいる、雛祭さんが立っていた。
「何してるんですか。こんなところで」
「え、あ、う……」
「ふふ、『マシュかわ』の主人公みたいですよ。小さく丸まって、マシュマロおばけみたいになってます。わたしが飼ってあげましょうかー?」
「は!?」
「なんてね」
けらけら笑っている雛祭さん。あのまじめな雛祭さんが、『おれを飼う』って……!
これが、真に通じ合った男女ラノベ友達の会話だというのか!?
「えっと、ひ、雛祭さん……おれ達、ら、ラノベ友達になれた……んだよな?」
「ええ、もちろん! ……でも」
「で、ででででも!?」
おれ、何か変なこといってしまったのか?
それとも、何か交換条件が!?
何でもいってくれ、雛祭さん! 何でもしますから!
すると、雛祭さんはおれの耳元に近づき、こそっとささやいた。
「本当は、ラノベ読書デートするような……そんな仲になりたいです」
いいおえた雛祭さんは、ほんのりと頬を染め、そのまま走り去ってしまった。
残されたおれは、しばらくその場に突っ立っていた。
雛祭さんの言葉を、何度も頭のなかで反芻しながら。
今のって、どういう意味なんだ? まさか……まさかだよな?
雛祭さんが、おれなんかに……いや、それはいわない約束だ。
「ピッパムの代わりの花の、花言葉でも調べておくべきか……」
ふだんなら花言葉の本なんて、こっ恥ずかしくて借りるはずもないのに、この時ばかりは図書室への足取りがいやに軽く感じた。
おわり