放課後の生徒指導室で、こってりとしぼられた、おれと雛祭さん。
雛祭さんは、さすがにしょんぼりと歩いていたが、おれは別のことが気になって仕方がなくなっていた。
もしかしたら、忘れてしまった雛祭さんの記憶には、思い出したくないものがあったんじゃないか? だから、雛祭さんはいまだに、記憶をなくしたままいるのではないか。
医者に、記憶はたいてい二十四時間以内には、戻るといわれていたらしい。にもかかわらず、いまだに記憶は戻らない。あれからもう、三日目に入るというのに。
こっそりと、おれは息をついた。夕陽が沈みかけた空に、紫がかった雲がゆったりと流れていく。
なんだかこれ以上は、おれがどうこう考えても、しょうがないことのように思えてきた。雛祭さんが思い出したくないことがあるなら、それでいいじゃないか。
マシュかわの設定以外のことをいっていた件だってそうだ。おれには、関係のないこと。雛祭さんの今が、心の底から笑顔になれるような毎日であるなら、それで十分じゃないか。
「鯉幟くん、今日は……すみませんでした」
雛祭さんが、早足でおれの前に回ってきて、ぺこりと頭を下げた。おでこが、ひざにくっつきそうなほどの勢いだ。
そうか。また、ずっと黙ってしまっていたんだな、おれ。だから、怒っている思われたらしい。
おれにとっては、誰かといっしょに歩くなんて、めったにないことだからな……。また、嫌な思いをさせてしまったみたいだ。
「そ、そんなに頭を下げるなって」
「怒ってますよね……?」
「怒ってない、怒ってない。……ごめん。おれ、しゃべるの苦手だから。雛祭さんに、気まずい思いさせたんだよな」
「でも、わたしのせいで、先生に怒られてしまいましたし」
「おれは、雛祭さんの共犯だろ。気にすることじゃない」
「共犯、ですか」
「そう。―――今日は、バター芋ようかんがおいしかった。それで、いいじゃん。あ……でもけっきょく、雛祭さんは食べられなかったんだっけ……」
「いえ、もういいんです。鯉幟くんの、おいしそうな顔を見れて……嬉しかったので、満足しました」
ふわりと笑う雛祭さんは、本心からそれをいっているんだろうと思う。
でも、おれだけ食べさせてもらって、「ごちそうさま」では終われないんじゃないか。
「芋ようかん、あとどれくらいあるの?」
「まだ、七本くらいあります」
「じゃあ、食べよう」
「えっ?」
「まじでうまいんだよ。これは、バターで焼くのが正解。雛祭さんも、ぜったい食べたほうがいい」
「でも、うちのキッチンは使えなくて……」
「あのさ……今から、時間ある……かな」
きょとんとする、雛祭さんだったが、すぐにこくりとうなずいた。
「デイキャンプ、行こう」
「デイキャンプ……って、なんですか?」
「外で、ご飯作って、食べること。近くで、気軽にキャンプできる施設があるんだよ。といっても、その公園……夕方五時で閉まっちゃうけど……」
こんなの、明日でもできることだ。なんなら、明後日でも。
なんでおれは、今からデイキャンプやろうと誘ってるんだ。
……見えたんだよ、家庭科室で。
芋ようかんの消費期限が、今日の日づけなのを。
だから、今日じゃないとだめだって、思っちゃったんだよ。
「行きます……行きたいです。デイキャンプ!」
「……じゃあ、キャンプ道具、取りに行こう」
ここから、家まで走って三分ほど。それから、公園までチャリで二十分。
あきらかに、むちゃなスケジュールだ。
でも――。
「走れるか? うちに着いたら、雛祭さんは妹のチャリに乗って、スタンバイしといて。すぐに道具持って、公園に行こう」
「わかりました!」
おれたちは、同時に走りだした。こんなの、ばかすぎる。計画性、なさすぎだ。
なのに、おれはわくわくしていた。
家庭科室で、バターと芋が混ざりあう香りに目を輝かせていた、雛祭さんの顔を思い浮かべながら。
*
キャンプ用のガスバーナーの炎が燃える音、スキレットの上でじゅうじゅうとはじけるバター、その海のなかでじゅわじゅわと焼かれていく、芋ようかん。
いよいよ山間に陽が隠れるまぎわ、人のすがたがすっかりなくなった公園で、おれと雛祭さんは、スキレットで泳ぐ、芋ようかんを顔をよせあって見つめていた。白い湯気がたちのぼり、薄闇のなか雑草や木々がしげる。
あと十五分で閉まる公園で、おれたちは芋ようかんを焼いている。
「焼けたよ。雛祭さん」
「すごい。こんな小さな調理器具で、料理ができるんですね」
行きしな、近くのスーパーの百均に駆けこんで買った紙皿に、芋ようかんを乗せた。雛祭さんに、プラフォークといっしょに渡す。押し迫る時間のなか、急ぎ足に芋ようかんを切り分け食べる、雛祭さん。はふはふと熱そうにしながらも、その表情は一気に、とろけたバターのようになる。
肌寒い風が吹くなか、芋ようかんからのぼる白い湯気が、雛祭さんを包みこむ。
「おいしいです……!」
「うん、おいしい」
「公園が閉まるまで、あと十四分だ」
「一気に焼いちゃいましょう! 十四分あれば、十分ですよね」
「そうだな。焼いちゃおう」
不思議だ。こんなにせっぱつまった状況なのに、なぜか楽しい。
急いでバターを溶かして、急いでぜんぶの芋ようかんを焼いた。最後はスキレットに乗ったままの芋ようかんを、ちょくせつフォークを刺して、食べた。
芋ようかんをもぐもぐ頬ばっている雛祭さんと目があった。紅潮したほっぺたをおいしそうにふくらませ、幸せそうに笑った。おれもつられて、笑顔になる。
この芋ようかんがやたらおいしいのは、有名店だからとか、バターで焼いてるから、だけじゃない。
陽が沈むと、気温が一気に下がってきた。夜に着がえた公園の木々が、ざわりと鳴く。
雛祭さんが、最後のひとかけらを飲みこんだのを見届けると、よいんに浸る間もなく、そうそうに片づけに入る。キャンプ道具やら、使った紙皿やらを、ビニル袋とバッグに突っこんで、おれたちは走って公園を出た。
閉園、三分前。ぎりぎりまにあった。
息を切らせ、駐輪場に着くと、ホッと胸をなで下ろす。
「なんとか、いけたな……。着きあわせちゃって、ごめん」
「とんでもないですよ。わたし、こんなに楽しい思いしたの、生まれてはじめてです」
「いや、それはいい過ぎだろ。まあ、そこまでいってもらえて、嬉しいよ」
「……いい過ぎなんかじゃないです」
あたりは、すっかり暗くなっている。夜の暗がりのなか、ぼんやりと灯る街灯が、おれたちを微かに照らした。
「今日は……なんだか、こっち世界もいいなって、思えました」
「それは、光栄だな」
「ふふ。鯉幟くんのおかげです」
おれの、おかげ。あの雛祭さんに、そんなふうにいってもらえたことが無性に嬉しくて―――でも、おれなんかに恩なんか感じてもらうのが、申し訳なくて。
褒められ慣れてないおれは、やっぱり雛祭さんの言葉を「大げさ」だと思ってしまった。
「……おれ、そんなにありがたがられること、してないって」
すると、雛祭さんはムッと、不機嫌そうな表情になってしまう。
「じゃあ、鯉幟くんは、わたしといっしょにバター芋ようかんを作って、楽しくなかったんですか」
「まさか。そんなこといってないだろ」
「だって、さっきも『ごめん』なんていってきましたし……」
「……おれが変なこと思いついたせいで、こんな時間までつきあわせちゃったんだから、そりゃ謝るだろ」
「なんで謝るんですか! おかしいですよ、そんなの。わたしは、楽しかったっていってるじゃないですか」
「おい、待てよ。なんで、逆ギレしてくるんだよ」
「だって、さっきまで! あんなに……楽しかったのに、こんな気持ちにさせられて、意味わかんないですよ!」
雛祭さんは、ぎゅ、とくちびると引き結ぶと、自転車に乗って、ひとりで走って行ってしまった。
おれは、その場に取り残されると、しばらく雛祭さんが走って行った方向を見つめていた。いつまでたっても、頭のなかが真っ白だった。
ようやく気を取りなおしたのは、スマホのバイブが鳴ったからだ。あわてて、スマホを見たが、企業アカウントからのラインだった。アプリを開いても、雛祭さんからのラインは来ていない。
漕ぐ気力がなく、手で自転車を押して、五十分かけて家に帰った。
家の自転車置き場に、妹の自転車がていねいに停めてあった。雛祭さんに貸していた自転車だ。
あのまま、ひとりで帰ったんだな。
「これって、ケンカ……だよな」
友達が少ないおれは、これからどうしたらいいのか、まったくわからず、途方に暮れていた。