次の日。やっと水曜日。あと二日で休日だ。休みになったら、思いっきりゲームでもしよう。なんて思いながら、教室のドアをあけると、一気に「ざわっ」というクラスメイトのざわめきがあふれた。
教室の中心に、雛祭ちかなの黒髪が、筆の一筋のようにゆらりとゆれた。おれを振り返ったちかなが、にっこりとほほえむ。
どうして。なんで、登校してきたんだ、雛祭さん。あんた、記憶喪失なんじゃないのか。まさか、もう治った、とか。
「ここが異世界の学校ですか。とっても地味なところなんですね」
ぜんっぜん、治ってない。まじか、なのに登校させたのか、両親。信じられん。
クラスの連中は、あのまじめな雛祭さんがぽわぽわなことをいっているので、あっけにとられている。
「ちかな、おもろいことになってるけど、学校来て大丈夫なの?」
「お母さんが、行っても大丈夫っていってくれたんです」
「なんか……心配だけどさ、ちょっとその設定、ノリたいかも」
「設定……? わたしはエーデルリリィから、この世界に転生してきたんですよ。設定ではありません」
「異世界転生記憶喪失、エモくね? おれもなってみてー!」
「エモい、とは何かの呪文ですか?」
雛祭さんのまじめな性格できっちりと引きしめていたクラス。だが、雛祭さんがぽわぽわになったことで、タガが外れてしまい、よりいっそう、ぽわぽわになってしまったクラスメイトども。
おれは、誓った。
よし、今日は雛祭さんに関わらないようにしよう。お見舞いの品は、家の前に引っ掛けておけばいいか。とにかく、学校では関わらない。面倒ごとはごめんだ。
「あのう、昨日、救急車……というものにいっしょに乗ったかたですよね」
現実逃避するように窓の外を見ていたおれを、雛祭さんがまたも見下ろしている。そりゃあ、背比べすればおれのほうが少しばかり背が低いが、見下ろされてばかりでは気分が悪い。かといって、立ちあがることはしない。
「えっと……何か、用?」
「もちろんです。あなたと話がしたいんです」
「なんで?」
「昨日、わたしはあなたに話があって、あそこに行った……気がするんです」
おや。少し、記憶が戻りはじめているのか? おれは、雛祭さんを見あげた。こめかみのあたりを押さえ、眉間にしわを寄せている。……苦しそうだ。
「おい、むりに思い出す必要はないんじゃないか……」
「つまり」
おれの言葉をさえぎるように、雛祭さんは手のひらを差し出す。
「あなたは、あそこで召喚の儀を行っていた……と、いうことですね」
「は?」
「あなたがわたしを、この世界に召喚したんですね?」
「違う」
「隠さなくてもいいですよ。エーデルリリィのことが書かれた本が、あそこに落ちていたのが何よりの証拠です。ほら、見てください。表紙に、黄色い木が描かれているでしょう」
雛祭さんは、『マシュかわ』をおれに見せつけ、指を指す。たしかにそこには、黄色い木が描かれていた。
「わたしが、召喚されたときに地面に集められていた、葉っぱです。名前は、ギアル。いっしょに召喚されてしまったようですね。ふふふ」
「いや、それは」
ただのイチョウの葉っぱだ、雛祭さん。
おれは、本当のことを話すべきなのか、傷つけないようにうなずくべきなのか、迷った。
だが、ここではっきりいわないと、まじめな雛祭さんの記憶が戻ったとき、恥ずかしい思いをするかもしれない。おれだったら、異世界記憶喪失なんて、いやだ。
だったら、早い段階で気づかせてやったほうがいい。そうだ、今ここでいってやろう。
あんたは、間違いなく、ここの世界の住人なんだと。
「あら、雛祭さん」
がらり、と教室のドアが開いた。水木先生が、出席簿を持って入ってきた。おれは、いうタイミングを逃してしまった。仕方なく、自分の席に着く。クラスメイトも、雛祭さんも、ぞろぞろと自分の席に着いた。
水木先生が教卓で、心配そうに雛祭さんを見つめる。
「昨日は大変だったでしょう。でも、登校して来てくれて、安心したよ。お父さんは、なんていってた? 心配してたでしょ」
とたん、雛祭さんはうつむいてしまう。教室に、いいようのない沈黙が流れた。みんな、雛祭さんのようすに動揺している。
雛祭さん、どうしたんだ?
水木先生も焦りだし、困ったように身振り手振りをしている。
「ご、ごめんなさい。わたし、変なことをいってしまったかな」
「いいえ、先生はなにもいってません。何だか、胸が苦しくなったんです。でも、平気ですよ」
雛祭さんは、へらりと笑う。まじめだった雛祭さんは、そんな笑いかたはしなかった。
でも、おれはそんなふうに笑うようになった雛祭さんのことを、間違っているとは思わない。
まじめだった雛祭さんは、おかしな雛祭さんになった。
そしておれは、そんな雛祭さんのことが、自分でも気づかないうちに、めちゃくちゃ気になるようになっていた。
昼ごはん。弁当を持ったおれたちは、教室のすみっこで机をくっつけた。むかいに座るのは、おれの数少ない友人である、海野快人。
快人は、ラノベ仲間であり、オタク仲間でもある。だからこそ、今回の騒動に関わっているおれのことを特に心配してくれていた。
「お見舞いは行くべきとして、雛祭さんとは、これ以上関わらないほうがいいと思うぞ」
「やっぱり、サポートとかは止めておいたほうがいいよな。痴漢冤罪とかもあるし……」
「それもそうだが、それだけじゃない」
「他にも何かあったか?」
「このまま、雛祭さんの記憶が戻らなかった場合だよ」
「……え? 医者は、二十四時間以内には戻るだろうっていってたが」
「お前、人体の不思議、みくびんなよ。医者がいってたからって、それが確実とはいいきれないだろ」
「……それはそうかもしれないが」
「もし、記憶が戻らなかったとして、目の前にいたお前の責任が完全にないとはいい切れないだろ」
「でもさ、それって……責任から逃れろっていうことかよ」
つい強めにいうと、快人は苦虫を噛み潰したような顔で、箸をにぎりこんだ。
「もし、雛祭さんの両親に、お前が責任を取れといわれたら……」
「いわれたら、なんだよ」
「お前、雛祭さんと結婚するってことじゃないのか」
「……はあ?」
「責任とるって、そういうことだろ。許さないからな。あんな、美人とお前のようなモブやろうが、結婚だなんて、おれは認めない! ご祝儀なんて出さないからな!」
「……くだらんこといってないで、さっさと弁当食え」
脳みそがねじくれてんのか、こいつは。
でも、まじに記憶が戻らなかった場合は、そういうこともありうるのか?
おれと、雛祭さんが、結婚……。
そうなったら、信じられないくらいおれの人生は様変わりする。
雑草しか生えてなかった道に、突然、百種類のバラが咲き乱れるような、夢のような変わりっぷりだ。
幸せに違いないけれど、自分が異世界から転生してきたと思いこんでいる雛祭さんは、それで幸せなんだろうか……。
いや、なにいってんだ、おれは。
雛祭さんは、この世界の住人なんだよ。
こんなときに異世界のことを考えるなんて、やっぱりおれの人生に敷かれているレールは、ラノベオタクのものなんだと、痛感した。
放課後、家に帰ってから、普段着に着がえ、自転車でスーパーに向かった。見舞いの品なんてものは人生ではじめて買うので勝手がわからない。とりあえず、手土産っぽいものが売っているコーナーで、小遣いぎりぎりのお菓子を買った。けっこう大きい箱だし、問題ないだろう。
だが緊張しているおれは、雛祭さんの家になかなか行くことができず、けっきょく寄り道とばかりに地元の図書館に向かった。
気晴らしに、ちょうどいい。
おあつらえむきに読む本がなくなったうえ、小遣いが底をつきたところだし。
この図書館には、小学校のときからよく来ている。
しかし、今は青春まっさかりの高校生。高校生ともなれば、たいていは自習室で勉強、というのつねらしいが、おれはきちんと新刊コーナーもチェックする。
この図書館では、土曜に新刊が入ってくるが、今日は水曜日。ずいぶん、間が空いてしまったが、ここの図書館はあまり利用者がいない。品ぞろえがわるく、並び順も作者別ではなく、出版社別で見つけにくいとのことで、本好きは隣町の図書館に行ってしまうらしい。
なので、入ったばかりの新刊が、まだ借りられていないという状況に遭遇することがよくあるのだ。
評判がよくないこの図書館も、おれのような人間からしたら、掘り出し物が見つかる宝島のような存在だ。本がないならリクエストカードを使えばいい、なんていう無粋なまねは、おれはしない。理由は簡単、司書に存在を気づかれたくないからだ。「また来た、あの陰キャ」なんて、思われていることがわかれば、二度とこの図書館には来ないだろう。
さて、そんないくじなしなおれは、まだ雛祭さんの家に行きたくない。新刊コーナーによさげな本があったら、借りてそのへんのベンチで読もう。
「あら、あなたはたしか……
この声は。恐る恐る、顔をあげる。
新刊コーナーをよく見ようと腰をかがめたおれの後ろに、雛祭ちかながすらりとしたワンピースを着て、立っていた。
腰のあたりをベルトでキュッとしめ、オーバーサイズのアウターから、しゃなりとのびた黒いワンピース。白いソックスに、ローファーという、いかにもまじめなお嬢さまといういでたちだ。
「こんなところで、なにしてるんだ」
「この世界の歴史を調べに来たんです。歴史を調べるには、図書館と相場が決まっているでしょう」
ずいぶんとアナログだな、ネットがあるじゃないかと思ったが、『マシュかわ』の世界にはたしかにネットなんてものはなかったからな。紙の本で調べるのが、雛祭さん的には自然というわけか。
「鯉幟くん。この世界の文字は何種類もあって、読むのが大変なようでして……解読を手伝ってくれませんか?」
「……え?」
これは、盲点だった。ラノベは、日本語で書かれている。だから、雛祭さんには異世界言語という概念はないと思いこんでいた。だが『マシュかわ』に転生した主人公は、たしかにこういっていた。
「見たことのない文字のはずなのに、意味が理解できる」
『マシュかわ』は、生まれてすぐの赤ん坊のときに、自分が異世界に転生した事実に気づく。そこで主人公は見たことのない言語をはじめて見た。にも関わらず、意味がわかったのだ。すぐに主人公は、頭のなかで、意味が同時翻訳されていることに気づく。定番のご都合スキルのおかげで、主人公は異世界の言語を理解し、異世界の言葉を話せた。
つまり、雛祭さんはその設定を正確に記憶し、忠実に守っていることになる。記憶喪失になっているはずなのに『マシュかわ』の世界観だけは、そっくりそのまま残っている。
なんてすばらしい『マシュかわ』オタクなんだ。尊敬に値するぞ。
……いや、ちょっと待てよ。これって、まさか。
「おれが、雛祭さんにこの世界の言葉を教えるの?」
「今、そういいましたよね?」
「……いや、まじめに?」
「わたしは、いつもまじめですよ」
それは、記憶喪失になるまえの、雛祭さんの口癖だった。まさか、ここで聞くことになるとはな。
「わ、わかったよ。地元歴史コーナーはこっちだから……い、行こうか」
「ええ、よろしくお願いします。鯉幟さん」
オタク特有のどもりもいっさい気にすることなく、雛祭さんはおれにぴったりと着いてくる。
そのとき、手に持っていた紙袋を思い出す。とたん、持ったままなのが恥ずかしくなり、おれはもじもじとした情けない顔で、雛祭さんにそれを差し出した。雛祭さんが、不思議そうな顔でそれを見つめている。
「これは?」
「お見舞いの、つまらない、お菓子。雛祭さんに、どうぞ」
この世界の言語の勉強が必要なのは、おれのほうだ。雛祭さんは黙ってそれを受け取ってくれて、ふわりと嬉しそうに笑った。
「まじめなんですね、鯉幟くん」
「……きみも、だろ」
その日、たしかにおれたちは地元歴史コーナーで、本をいっしょに読んだはずだ。だが、自分が彼女と何を話したのか、さっぱり思い出せない。
心臓がばくばくとうるさすぎて、集中できなかったせいだ。
決して、異世界転生記憶喪失が感染したわけではない。