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第14話 扉の向こうへ

 翌朝、さっそく旅装を整えたアイリスは、意気揚々と両親の部屋に向かった。


「お父様? わたくし、マーガレットお姉様に会いに行くことに決めました。国外追放されましたので……お父様、お母様、これまで長いことお世話になりました。これからも心から愛しています。お二人のことは、忘れませんわ」


「アイリスっ……!!」

「アイリス、そんな紙切れ一枚、まともに取り合う必要はない! 待ちなさい!!」


「ええ、わかっていますわ。では、侯爵令嬢の身分剥奪でも、親子の縁は切らないでいてくださいますのね? でも、せっかくのチャンスですから、お姉様とお話してきます!」


「親子の縁切り!? アイリス、何をバカなことを言っているの! そんなことするわけがないでしょうっ! こらっ! お母様の言うことを聞きなさいってば! もう、この子は時々、まっすぐ過ぎるのよ……!!」


「ローズマリー、急いでマーガレットに手紙を送るんだっ! いや、早馬を送れっ!!」


「アイリスーっ!!」


***



『もし———今までと違ったものが見えたなら。

 何かを変えるチャンスなの』


(わたくしは、そうしてチャンスを掴んだわ)


 心を決めたアイリスには、一切迷いはなかった。

 そうして、このことを、誰よりもアナに伝えたい……。

 アイリスは、そう思ったのだった。


***


「アイリス! おまえは、俺の想いにはいつ気づいてくれるんだよ!?」


 ノーフォーク侯爵から知らせを受けたユーグは、即座にアイリスの後を追いかけた。


「俺はおまえの騎士だ! おまえだけの騎士なんだっ!! おまえが旅に出るなら、俺もついて行くからな!!」


 ユーグの決意を聞いた、父であるシンプソン騎士団長とまたもや大喧嘩になってしまったことなど、ユーグは気にもしていなかった。


 アイリスを乗せた、ノーフォーク侯爵家の馬車は、もう目前に迫っていた。

 ユーグはほっと、安堵のため息をつく。



 やがて、アイリスの元に、エドワード王子からお見舞いの花束が、謝罪の言葉が書かれたカードが届くことを、アイリスはまだ知らない。


 そして、幼なじみのユーグが、これから何度も何度も、アイリスにプロポーズをすることも。


 一方、エドワードに巧みに近づいて、婚約破棄の原因を作ったリリベル・ジョーンズ男爵令嬢。


 リリベルはあっさりエドワードを捨て、一目惚れしたノール王国国王にすり寄ったが、不敬を働き、投獄されている。


 かつてアイリスの王子妃教育を担当したクラストン夫人は、深い後悔の中にあった。


 衝撃的なアイリスの婚約破棄、その後の国外追放の話を聞いて、彼女は心臓が止まりそうな恐怖にとらわれた。


 思い出すのは、自分が主催したお茶会だ。


 実の兄の縁で、頼まれて面倒を見ていたリリベル・ジョーンズ。

 王立学園に通う学費も援助していたが、どうしてもお茶会に参加したい、とごねられたのだ。


 社交界へのデビューもしていない、マナーも礼儀もまだまだのリリベルだったが、貧乏な暮らしをしていることを繰り返し責められ、罪悪感から出席を許してしまった。


 挙句、リリベルはエドワード王子に目を付けてしまったのだ……。


 お茶会での態度を叱責して、早々に兄の元に送り返したが、リリベルの目には執念深い怒りがあったように思う。


『……わかりました。では、お借りしていたドレスと靴をお返しします』

『そんなものはいいのよ。兄には手紙を送ります。わたくしには、あなたが社交界でやっていけるか、確信できないわ』


 あの時のリリベルの顔。


 親切なふりをして、厄介者扱いをしているだけではないか?

 リリベルの顔は、そう言っていた。

 あの怒りが、アイリスに向いてしまったに違いない。


 クラストン夫人は、意を決して、王妃への手紙を書き始めた。

 もちろん、改めてお目通りを願い、自分が見たことを包み隠さず申し上げるつもりだった。


 同時に、自分のリリベルへの態度も、反省していた。

 クラストン夫人は何度も迷いながら、手紙の最後にこう書いた。


『リリベルのしたことが取り返しのつかないことであるのは、重々承知しております。愚かな子だと思います。それでも、何とか、教え、諭してやりたいのです。どうか一度、リリベルに会って話すお許しをいただけないでしょうか?』


***


 手紙といえば、ノーフォーク侯爵家からの早馬が運んだ手紙は、ノール王国に嫁いでいた、アイリスの姉、マーガレットの元に無事に届いた。


 アイリスがエドワード王子に婚約破棄されて国外追放にあったことを知ると、マーガレットは衝撃で泣き崩れた。

 慌てて、夫がマーガレットを抱き寄せる。


「マーガレット、しっかりしなさい。手紙には、アイリス嬢はあなたに会いに行った、と書いているだろう。しかも彼女の護衛には、騎士団長令息が自ら付いてくれたと。大丈夫、きっとアイリス嬢は無事に到着する」


「あなた……」


 優しいマーガレットは涙をこらえながら、夫に訴える。


「お願いでございます。どうか、国境までアイリスを迎えに行ってくださいませんか……? しっかりしているとは言っても、あの子はまだ十八歳の娘。何かがあってからでは、取り返しがつきません。お願いでございます……」


 マーガレットの夫は快く了承し、ただちに出発の用意をするように家令に命じた。


 それからしばらくして。


 アイリスへの仕打ちに激怒した父は、ついに王家への忠誠を捨て、昔、王家から下賜されたという、ノーフォーク侯爵家に代々伝わる剣を叩き返した。

 剣は安物の上に、ボロくなっていたので、その瞬間、真っ二つに折れた。


 王家は侯爵家を恐れ、何の手立ても取れていない。

 侯爵家の動向を、ただ見守るだけ。


 エドワードの兄である王太子は夜会に遅れて参加したため、この騒動を目にしなかった。

 しかし詳細を知って激怒、危機感のない家族との亀裂を深めることになる。


 近い将来、ノーフォーク一族は、ローデールの地を後にするだろう。


 ローデール国王はアイリスへの国外追放と侯爵令嬢の身分剥奪を取り消して、火消しを図ろうとするが、あの婚約破棄騒動は今さらどうしようもない。


「エドワードはただの謹慎!? ノーフォーク侯爵はどうするんです!! 剣を折って突っ返してきた侯爵がそれで納得するわけないでしょう!!」


 王太子の怒りは続く。

 ノーフォーク一族がローデールを見捨てる時には、王太子の激しい怒りがエドワードに向かうことは確実と思われる。


 エドワードは本気で自分の将来を心配した方がいいだろう…………。


***


 諸々の出来事が待つ未来。

 しかし、そうしたことをアイリスはまだ知らない。


 今は、旅を楽しんでいるのだ。

 晴れやかな笑顔で。

 アイリスの青い髪が、青い空に美しく映えていた。


 そんな彼女でも、ひとつだけ、はっきりわかっていたことがある。


「ねえ、ユーグ? わたくしね、あることに気がついたのよ」


 アイリスはユーグに言う。

 ユーグはいつも、さりげなくアイリスに寄り添っていてくれる。

 アイリスの視界にはいつも、ユーグがいた。


「一つの扉が閉まる時、もう一つの扉が開くの」


 アイリスは、大切な旅の相棒になったユーグに、心からの微笑みを向けた。


「わたくし、婚約の記憶を失って、本当に良かった」


***


 王子との婚約に関わる記憶だけを失ってしまったアイリスの話は、衝撃をもって、王国中に広まってしまった。


「よほどお嫌だったのですね」

「わかりますわ、王子があれですもの」


「それに、あの男爵令嬢がいつもびたっ! とくっついていましたものね?」

「ノール王国の国王陛下を見て、すぐ王子から乗り換えましたけどね?」


「ほんと、あの男爵令嬢ときたら……節操のない……」(失笑)

「身の程知らずとはまさにこのことですわ」

「不敬罪で投獄されていますわ」


「当然ですわね」

「あのまっすぐなアイリス様が我慢できるはずがないのです」


 婚約破棄されて力なく床の上に倒れ込んだ、完璧令嬢アイリス。

 やがて目を覚ましてからのアイリスの可愛らしさは印象的だったようで、貴族達は一転して、アイリスの側に付いてしまった。


 一人の令嬢がずいっと身を乗り出す。

 黒く艶やかな巻毛が美しい令嬢だ。


「わたくしは、アイリス様を信じていましたわ! 実は……あの夜会の前に、わたくし、アイリス様に助けていただいたのです。突然、婚約破棄され、馬車から飛び出そうとしたわたくしを助けてくださり……アイリス様は、本当に正義感の強い、お優しい方でした。あの方は————」


 令嬢達の話はまだまだ続いていた。



 婚約の記憶(だけ)を失った侯爵令嬢アイリス。

 彼女は、こうして、人生をやり直すことにしたのだった。


 新しい扉を開けば、新しい道が見えてくる。


 コンコン、と馬車の窓を叩く音に、アイリスは慌てて窓を開いた。

 馬に乗って並走しているユーグが、満面の笑みで、前方を指差している。


 今は、大切な旅の相棒。

 でも、未来は?

 もしかしたら、もっと———。


 振り返るユーグの、深い森のような緑色の瞳がアイリスをまっすぐ見つめていた。



「アイリス! 見ろよ、ノール王国が見えてきたぞ!!」


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