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第13話 婚約の記憶だけを失ってしまった令嬢

 アイリスは夜会のために着ていたロイヤルブルーのドレスを脱ぎ、淡いピンクの軽いドレスに着替えて、ユーグとともに夜の温室にいた。


 温室の中は暖かく、色とりどりの植物達が元気よく育ち、天井の窓からはたくさんの星が見えていた。


「もう遅い時間だから」と固辞するユーグを説得して、アイリスは「いろいろあって神経が昂って寝られないから、話し相手になってほしい」とユーグに頼み込み、温室に来たのだった。


 温室に置かれた小さなテーブルには、軽いお菓子と温かなハーブティが用意されていた。


 背の高い木の上に吊るされたランタンの灯りが、幻想的な光を周囲に投げかけている。


「夜の温室かぁ。ロマンティックねえ。ほら見て。あの蘭のお花、満開だわ。すごく綺麗」


 アイリスが背中に自然に流した青の巻毛を揺らしながら微笑む。

 エドワードに婚約破棄され、気を失い、魔法が発現した後から、アイリスはまるで別人のように変わった。


 表情が明るくなり、コロコロとよく笑い、ちょっとした動作も茶目っ気たっぷりで、まるで幼い少女のようだった。


 でも、子どもの頃は、確かにアイリスはこんな感じでよく笑っていた、とユーグは思い出す。


 それが、王子の婚約者になり、王子妃教育が始まり、侯爵家でも厳しい躾や教育を受け、次第に完璧な令嬢へと変貌していったのだった。


「アイリス、これからどうするんだ? 本当に、王子との婚約だけを覚えていないのか?」

「そうなの。不思議だけど、そのようよ? でもいいの。話を聞くと、楽しい記憶じゃなさそうだから」


 そう言って、アイリスはクスクス笑った。

 そうして、クッキーを上品につまむと、はむっと、まるでリスのように口に入れるので、ユーグは思わず笑ってしまった。


 笑ってしまってから、慌てて顔を引き締めると、ユーグは言った。


「アイリス、俺と結婚……」


 しかし、全部言い終わる前に、アイリスはぺちん! とユーグの鼻をはたいたのだった。


「ぶふぉっ!? アイリス、何をするんだっ!!」

「ユーグ、わたくしなら大丈夫よ。そんなに心配しないでいいのよ?」


「……! いや、心配というか。俺は、ずっとおまえのことを……」

「ユーグ、わたくしはこれから国外追放になる身の上よ。誰かと、ましてや騎士団長の令息と婚約などできる場合ではないの」


 ユーグはため息をついた。


「これからどうするつもりなんだ?」


 その言葉を聞いて、こてんと首を傾げるアイリス。

 シンプルに、可愛いかった。

 ユーグは真っ赤になった顔をブンブンと振った。


「おまえ、急に性格変わったな!? いや、元はこっちだったな!?? そうか、元々の性格に戻ったのか」


「修道院にでも入ろうかしら?」

「アイリス!」


「国外追放になるのでしょう? じゃあ、外国へ行かないといけないわね?」

「無実の罪だろう!!」


 う〜ん、とアイリスは綺麗なラインを描く眉を寄せて、考え始めた。

 成長して、すっかり完璧な美貌になった彼女が、子どもの時のようなしぐさをすると、とても不思議な感じがする、とユーグは思う。


「わたくしは婚約の記憶だけを失ってしまった。それでも、わかるわ。わたくしは今までに心から誰かを愛したことはない。もし、わたくしがあのエドワード王子と婚約していたとしたら、それは侯爵令嬢としての、王子の婚約者としての、体面と矜持だけが理由だったのでしょう。リリベル嬢のことも、どうでもいいと思っていたと断言できるわ。……ということは……」


 アイリスはまだ、眉を寄せて、うんうんと唸っている。


「アイリス……その顔でその表情をするのは、おかしいから止めてくれ」


「そうよ、旅よ」


 アイリスはユーグに構うことなく言った。


「失恋したら、旅に出るものだわ。まあ、正確には婚約破棄のようだけど。そうだ。せっかくだから、理想の男性を探しに行きましょう!」

「はあ!?」


「マーガレットお姉様が隣国のノール王国に嫁いでいらっしゃるわ。もう何年も会っていない……。会いに行きましょう。そうしたら、新しい出会いがあるかも」

「何!? 新しい出会いなんて、とんでもないっ! いや、待て!! 俺も行く!!」


「いいえ、もう一度言うけど、あなたは騎士団長の令息でしょう。他国になんて行けないわよ〜」


「何とかする!! アイリス、待ってくれっ!!」


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