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第9話 今まで見えていなかったもの(3)

 意識が戻ってくるにつれ、アイリスの中から関連する記憶が蘇ってくる。


 そうだ。

 これは、リリベル・ジョーンズ男爵令嬢。


『怖い。睨まないでください』


 突然そんな風に言われて、涙ぐまれたっけ。

 なぜ、見知らぬ彼女にそんなことを言われたのかわからなかった。


 授業が始まっても、他のクラスに所属している彼女が、アイリスのクラスの教室に残っていたので、自分の教室に戻るように言ったら、「陰険、意地悪」と言われたのだった。


 廊下で、突然、「わたしの荷物を壊さないでください!」と叫ばれたこともあった。

 驚いて立ち止まると、「わたしに触らないで! 痛いです!!」と涙を流し始めたっけ。


 冷たい大理石の床の上に横たわりながら、今まで、些細なことと流していた記憶をアイリスは思い出した。


 そして気がつく。

 アイリスは目を見開いた。


 リリベルと二人きりで会ったことはない。

 彼女の体に触れたこともない。

 彼女の持ち物に触ったことも、もちろんない。


 ……そもそも、男爵令嬢のリリベルは、わたくしに自己紹介をしたことすら、ないのだ。


 彼女の名前を聞いたのは、学園に課題を提出しに来た時のこと。


『あれは、確かリリベル・ジョーンズ男爵令嬢ですね。ピンク色の髪が、目立つでしょう? 赤い瞳をしていて、結構目立つ子なんですよ。この夏に転入してきましてね』


 アイリスは教授の話を聞いていた。

 しかし、公式には、リリベルは、「わたくしの知らない人」。

 なのにある時、彼女は突然言った。


『アイリス様、どうしていつも、わたしのことを睨むのですか!?』


 思い出し始めたら、どんどん出てくるエピソードに、アイリスは自分でも言葉を失った。

 ……どれも、おかしなことをする方ね、そう思ってやり過ごしていたけれど。


 今、得意げな顔をして、エドワードの背後から自分を睨みつけるリリベルを見ると、自分の考えが間違っていたと思う。


 やり過ごしてはいけなかった。

 リリベルは、目的があって、そうした行動を取っていたのだから。


 自分の見ていない所で、何かが起こっていた。

 そして、エドワードの心が、動いていたのだ。


 ホールのざわめきが大きくなった。


 アイリスの意識もはっきりしてきて、周囲の人々の顔も、わかってきた。

 ああ、本当に、人って、いろいろな顔をしているのね。

 アイリスは思う。


 厳しい顔。

 自分を侮る顔。

 バカにする顔。嘲る顔。満足げな顔。


 (……知らなかった)

 (あなた方は、わたくしをそんな風に、思っていたのね)


 一方で、アイリスは目を真っ赤にして泣き出した令嬢達に気づいた。


 アイリスは仰天する。


 (……??)

 (えっ? どうして? なぜあなた方が泣いているの?)

 (わたくしのことを、自業自得ね、と笑ったりしないの……?)


「ア、アイリス……!」


 アイリスは、弱々しく自分の名前を呼ぶ、女性の声を聞いた。


(お母様……?)


 アイリスは、忙しく目を動かして、両親の姿を見つけた。


 お父様。お母様。

 わたくしの両親は、厳しい。そう言っていいと思う。


 お父様はいつも、弱音を吐くアイリスに「おまえがどう思ったかはどうでもいい。殿下のご意向に沿えるようにさらに努力しなさい」とおっしゃっていた。


 お母様は勉強と行儀作法にはとても厳しく、妥協は許されなかった。

「侯爵家にふさわしい人間になりなさい」が口癖だった。


 なのに、今はお母様は真っ青な顔で、今にも倒れそう。

 そしてお父様ときたら、そんなお母様に気づかないほど動転した様子で、わたくしの方に駆け寄ろうとしているみたい。


(いつも落ち着いていて……動揺したところなんて、見たこともなかったのに)


 アイリスは冷たい大理石の床の上に横たわったまま、不思議な感覚を味わっていた。


(ここからは、今までは見えなかったものが、よく見えるわ)


 うまくいっていると思っていた婚約者の本当の顔。

 関わりがないと思っていた令嬢の、悪賢い顔。

 ただ、厳しいだけと思っていた両親の、動揺しきった顔。


 そして、自分の本当の気持ちも。

 アイリスは自分の心を見つめて、正確に読み取る。


 婚約者であるエドワード王子に対しては、もう「未練はなし」

 侯爵家の生活は、「未練はあるけど、まあ仕方ない。命には替えられない」


(んん、この姿勢も辛いわ。起き上がれないかしら)


 アイリスは体に力を入れようとするが、やはり動けない。

 その不快な不自由さに目が潤み、思わず目の前にいるエドワードをじっと見つめた。


 すると、おかしなことに、エドワードがだんだん、慌てた表情になっていき、アイリスは驚いた。


(変ね? 自分の思う通りになったのに)

(これは、あなたが望んだことでしょう……?)


 起き上がりたいけど、なぜか、頭が痛くて、自分では動けない。


***


 その時、アイリスは涙が目尻に溜まった顔で、ふわりと笑った。


 それは、美しいけれど、どこか人形のような、完璧な微笑ではない。

 儚げで、優しい、心からの微笑みだった。


 アイリスは思った。


 自分は、頑張った。

 できるだけのことは、したと思う。


 もう、婚約者もいらない。

 侯爵令嬢の誇りもどうでもいい。

 ただ、自分の心に楽に、生きていきたい、と。



。嫌なことは忘れてしまいましょう)


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