「アイリス様、ようこそいらっしゃいました」
お茶会を訪れたアイリスは、かつての王子妃教育を担当したクラストン夫人と再会した。
十二歳でエドワード王子と婚約したアイリスも今年で十八歳。
王子妃教育はすでに終了し、成人を迎える今年は、いよいよ結婚式の日取りが発表されるのではと噂されていた。
青い髪は長く伸ばし、上半分を複雑に結い上げ、花のコサージュで飾っていた。
ドレスは青とも紫ともつかない淡いアジサイ色で、絹の自然な光沢が美しい。
あいかわらず、胸元から手首まですっぽりと隠れるデザインのドレスだったが、繊細なレースが重ねられ、上品にアイリスを引き立てていた。
「クラストン夫人、お久しぶりでございます」
アイリスはきれいに見開いた紫色の目で、夫人を見つめた。
微笑をたたえた口元。
右手では、まるで何の力も入れていないかのようにして、扇を持っている。
揺らぎひとつ見せず、アイリスはまっすぐクラストン夫人の前に立った。
その、若々しいのに、堂々とした淑女ぶりに、かつての教師として、クラストン夫人の胸が熱くなった。
「まあ……相変わらずお美しい……ふふ、すっかり立派な貴婦人になられましたね」
クラストン夫人の言葉が、くすぐったかった。
何しろ、夫人の王子妃教育は、それはそれは厳しかったから。
もし、アイリスが今、立派な貴婦人に見えるとしたら、それは夫人の教育の賜物だった。
「クラストン夫人、これをどうぞ」
アイリスは左手に抱えていた、上品な淡いピンクのバラのブーケを差し出した。
「王妃様からお預かりいたしましたの。今日は、夫人のお元気な様子を王妃様にご報告するように約束してまいりましたのよ?」
クラストン夫人が微笑む。
「今でもわたくしのことを気づかってくださるなんて、ありがたいことです」
そう言うと、クラストン夫人は、優しくアイリスをテーブルに案内した。
そこでは若い令嬢ばかりが賑やかに集まり、おしゃべりを楽しんでいた。
アイリスがテーブルについたことで、護衛騎士のユーグは壁際に移動して控える。
「アイリス様、ご機嫌よう」
いち早く声をかけてくれたのは、見事な黒い巻毛の令嬢だ。
「アナ様、ご機嫌よう」
アイリスも挨拶を返した。
お茶会は和やかに進んだ。
アイリスが案内されたテーブルの令嬢達は皆、王立学園の生徒だった。
あまり学園の授業に出席しないアイリスだったが、エドワード王子の婚約者であることは、誰でも知っている。
令嬢達は丁寧に挨拶を交わし、社交的な会話を始めた。
その時、一人の令嬢が声を上げた。
「え……あれは、エドワード王子殿下ではございませんこと?」
「まぁ」
令嬢達がざわめく中、アイリスがサロンの入り口に視線をやると、果たしてそこにはアイリスの婚約者であるエドワード王子が立っていた。
しかし。
アイリスは静かにエドワード王子を見つめた。
彼の隣には、ピンク色の髪の令嬢が立っていて、王子の袖を引き、何かをしきりに話しかけているようだった。
(あの方は……たしか)
アイリスは立ち上がり、ゆっくりとエドワード王子の方に歩きながら考える。
「わたくし、聞いたことがありますわ。あの方、リリベル・ジョーンズ男爵令嬢ですわ。お茶会でお見かけするのは、初めてですけれど……」
「……お家があまり裕福ではないようですのよ? 今日いらっしゃったのは、クラストン夫人の遠縁に当たられるからだとか……まだ、社交界へのデビューもされていないそうですが、夫人のご好意で……」
それだけで、令嬢達は事情を察し、お互いにうなづきあう。
社交界へのデビューもできないほど、家には余裕がないが、若い令嬢のこと。
せめてお茶会を一度は見てみたい、とクラストン夫人に頼み込んだのだろう、と。
「まあ、そうでしたの……?」
「たしかに、言ってはなんですけれど、お召し物が少々……お体に合っていないような?」
アイリスの背後では、令嬢達の会話がまだ続いていた。
アイリスは背筋をまっすぐに伸ばし、優雅な足取りで、エドワード王子の元に向かう。
クラストン夫人も、王子の来訪に気づいたようだった。
心なしか早い足取りで、王子の元に向かっている。
「エドワード王子殿下、ご機嫌うるわしく、お喜び申し上げます」
アイリスは流れるようなカーテシーで王子を迎えた。
エドワードの腕には、まだリリベルの腕がからまっている。
しかし、アイリスの表情は穏やかで、その大きな紫色の瞳にも、どんな感情も浮かんでいなかった。
クラストン夫人もやってきた。
「エドワード王子殿下、お久しぶりでございます。お茶会にいらっしゃるなんて、お珍しいこと。でも。お会いできまして、望外の喜びでございます」
クラストン夫人は落ち着いてエドワード王子に挨拶をすると、さりげなくリリベルの腕を王子から外した。
微笑みながら、そっとリリベルを後ろに押しやる。
男性の召使いが音もなく近づき、リリベルの腕を取って、誘導していった。
「ふふ。我が婚約者を迎えに来たのだよ。母上が一緒にお茶をしたいと言っていてね。あなたと会った土産話を聞きたいようだ。それで、たまには婚約者らしく、こうして迎えに」
エドワードがアイリスの手を取って、そっとキスをした。
「まあ……それは素敵ですこと」
「ありがとうございます、殿下」
クラストン夫人が微笑み、エドワードはアイリスの手を礼儀正しく取った。
エドワードとともに歩きながら、そっとアイリスが振り返ると、クラストン夫人は、声を出さずに、唇だけでそっと言葉を綴った。
『先ほどは、ごめんなさいね』と。
アイリスも視線だけで、大丈夫ですわ、と伝えると、エドワードと二人でそのまま会場を出た。
廊下から、リリベルが振り返って、この様子を悔しそうに見ていたが、すでにクラストン夫人も、エドワード王子も、リリベルのことは気にしていなかった。
まるで何事もなかったかのように、会話が流れていく。
そして、アイリス自身も、この時の出来事はすぐに記憶から流れていってしまったのだった。