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第3話 けしてうつむいてはいけません

「エドワード王子殿下におかれましては、ご機嫌うるわしく」

「アイリス、そんなに堅苦しくなくていいよ。毎日それじゃあ、疲れてしまうでしょう?」


 アイリスは下げていた頭をゆっくりと持ち上げた。

 金髪碧眼。

 まるで天使のように整った容貌の少年が机の向こうから微笑んでいた。


「エドワード王子殿下……」


 アイリスが返事に困っていると、アイリスの背後に控えていたクラストン夫人が、咳払いをした。

 クラストン夫人は、王妃がアイリスに付けてくれた教育係だ。


「挨拶を含め、宮廷での振る舞い方は、王子妃として必須の心得でございます」


 クラストン夫人の言葉に、エドワードは困ったように微笑んだ。


「そうか。それはすまなかったね、アイリス。いや、アイリス嬢。勉強は順調に進んでいますか?」


 アイリスはそっと息を吸うと、すらすらと答えた。


「はい、王妃様もクラストン夫人も、とても丁寧に教えてくださいます」


 エドワードはうなづいた。


「それはよかった。頑張ってね。また、二人でお茶会をしましょう」

「はい、ありがとうございます、殿下」


 アイリスは美しい微笑みを浮かべ、カーテシーをした。


「エドワード王子殿下、それでは失礼いたします」

「ご苦労」


 クラストン夫人の挨拶に、エドワードもまた、上品な微笑を浮かべて、うなづいた。


 珍しい青い髪をした、エドワードの婚約者。

 アイリス・ノーフォーク侯爵令嬢は、教育係のクラストン夫人とともに、退出した。


 ドアの向こうに消えていった、小さな姿を、エドワードは思い出す。

 ほっそりとした、少女。

 ぴん、と背中を伸ばした、ブルーグレーのドレス姿。


 美しい青い髪は、まるで女学生のように、ゆるめに編んだ二つの三つ編みを、グレーのリボンで、背中でひとつにまとめていた。


(……アイリスは、あんな感じの子だったっけ……?)


 アイリスと正式に婚約して、3ヶ月が過ぎようとしていた。


 王宮での王子妃教育を受けるために、アイリスはほぼ毎日、王宮にやって来る。

 そして、クラストン夫人を伴って、エドワードへの朝と帰宅前の挨拶は欠かすことがない。

 母からも、アイリスはとても優秀で、王子妃教育は順調に進んでいる、と聞いていた。


 しかし、さっき会ったアイリスは、ちょっと浮かない表情をしていたように、エドワードは思った。

 それに、あのドレスは地味すぎではないだろうか。


 エドワードが王宮で見かける令嬢達は、色とりどりの、ヒラヒラしたリボンやフリルで飾り付けられたドレスを着ているのに。


 ブルーグレーの長袖のドレス。

 胸元もすっぽり覆い、首元に申し訳程度の白いレースが付いていた。

 布地が硬いのか、ゴワゴワとして見えるスカート部分は膨らみが控えめで、まるで修道女の着るドレスのようだ。


「エドワード殿下、お手が止まっていますよ」


 エドワードは静かに注意された。

 彼にも家庭教師が付けられている。

 ため息を呑み込んで、エドワードは机の上に広げた本のページをめくった。


***


「見て。あの子よ。アイリス・ノーフォーク侯爵令嬢」


 王宮の磨き抜かれた回廊を歩いている時、アイリスは自分の名前を誰かが口にしたのを聞いた。


 思わず立ち止まり、振り返ろうとして、クラストン夫人にたしなめられた。


「アイリス様、振り返ってはいけません」

「ご、ごめんなさい」

「謝る必要はありません」

「……はい」


 アイリスは慌てて視線を戻し、再び歩き始めようとした時だった。


「冴えない子ねえ……あれでエドワード王子殿下の婚約者だなんて」

「あのドレス、ご覧になりました? 野暮ったいこと。一体、どこで作ったのでしょうね」

「いけませんわ、聞こえますわよ?」

「あらやだ、ほんとですわね。あちらへ参りましょう、皆さん」

「ええ、参りましょう」


 アイリスの背後で、くすくす笑いながら少女達が移動していく気配がした。

 アイリスの顔がぱっと赤くなり、目がうるむ。


(な……に、あれ? わたくしのことを、笑っている、の……?)


 アイリスは悔しくて、目頭が熱くなってきた。

 自然に顔がうつむき、ぽつり、と涙が一粒、こぼれ落ちた時だった。


「アイリス様!」


 低く抑えた声だったが、明らかな叱責が飛んだ。

 びくり、とアイリスの肩が揺れる。


「アイリス様、こちらに」


 クラストン夫人は、早足で、回廊脇にある小部屋へとアイリスを連れていった。

 回廊の壁に、まるでだまし絵のように精巧に作られたドアがあり、その奥に作られているのは、急に気分の悪くなった貴婦人が休憩を取ったりするための部屋のようだった。


 窓もなく、狭い空間ながらも、花が飾られ、椅子とテーブル、ソファが置かれている。

 しかし、クラストン夫人はアイリスに椅子を勧めることもなく、注意深く、ドアを押した。


 ぱたん、と音がして、ドアが閉まると、クラストン夫人は、くるりと振り返り、言った。


「アイリス様、よろしいですか? これだけは今日、心に刻み込んでお帰りください。けしてうつむいてはいけません。どこにいても、何を言われても。いつも頭を誇り高く掲げ、二度と人の言葉に動揺してはなりません。口角は上げ、常に上品な微笑みを浮かべなさい。それから、その扇」


 クラストン夫人が、アイリスの手にしていた扇を叩いた。


「!」


 アイリスは思わず取り落としそうになったのを、慌ててこらえる。


「その扇は、見せかけだけですか? 貴婦人が手に持つ物には、ちゃんと役目があるのですよ。気持ちが動きそうになったら、その扇をぐっと握りしめなさい。そして、けしてあなたの心の内を外に出さないように。扇でお顔を隠すのはいけません。あなたが動揺していると、相手に知らせることになります。お返事は?」


 アイリスは扇を握りしめた。


「はい。よくわかりました」

「結構。それでは、参りますよ」


 クラストン夫人が小部屋のドアを開けて、再び二人で回廊に出た時だった。


「ノーフォーク侯爵令嬢」


 静かな声が、アイリスの背後からかけられた。

 その肩が一瞬震えたが、ゆっくりと、アイリスは振り返った。


 アイリスの紫色の目が、ゆっくりと見開かれた。


 そこに立っていたのは、初々しい騎士服を身に付けたユーグ・シンプソン。


 まだ少年らしい線の細さが残るが、騎士姿のユーグは、急に大人っぽく見えた。


「ノーフォーク侯爵令嬢にご挨拶に参りました」


 ユーグが流れるように、右手を左胸に当てて頭を下げ、騎士の礼を取る。


「俺……あ、失礼。私はユーグ・シンプソン。王国騎士団に所属する騎士です。この度、エドワード王子殿下の婚約者でいらっしゃるノーフォーク侯爵令嬢の護衛騎士になり……いえ、護衛騎士の1人として、ご挨拶を申し上げます」


「……!」


 アイリスは静かにユーグの前に立ちながら、ぐっと扇を握りしめた。


「ノーフォーク侯爵令嬢、いや、アイリス様。必ず、あなたをお守りいたします」


 ユーグの緑色の目が、アイリスを見つめていた。


 いつでも、ユーグはアイリスの大切な友達だった。

 一緒に遊んで、どんな話でもして。

 剣術の稽古をねだって困らせたりしたけれど、遠乗りは一緒に行ってくれた。


 会えない時はまるで交換日記のように手紙をやりとりして。

 友達らしく、あらゆることを話し合ったのだ。

 日常のささいなことから、将来の夢まで。


『心配するな。アイリスのことは、ちゃんと守る』


 そう言っていたのに、あっという間にアイリスの運命は変わってしまった。

 なのに。


(ユーグが、戻ってきた!)


 思わず心からの笑顔が浮かびそうになるのを、アイリスは痛いほど扇を握りしめて、こらえる。


『アイリス、大人になりなさい』


 父の言葉が耳に響いた。


 王子妃教育が辛くて泣いてしまった時。

 他の令嬢達に冷たくされた時。

 思わず自分の気持ちを訴えるアイリスに、父は机の上に広げた書類から目も逸らさずに、そっけなく言った。


『おまえがどう思ったかはどうでもいい。殿下のご意向に沿えるようにさらに努力しなさい』


 その言葉を何度聞いたことか。

 父の言葉を聞く度に、アイリスは、自分の心が少しずつ凍りついていくような気がした。


「アイリス様」


 無言で立っているアイリスに、クラストン夫人がささやいた。

 アイリスが、はっとする。


「シンプソン……様、あなたの働きを、期待しています」

「シンプソン」


 すかさずクラストン夫人が指導を入れる。


「シンプソン」


 言い直したアイリスの声は穏やかだった。


「ありがたき幸せ」


 ユーグはアイリスの差し出した右手に、そっとキスをすると、頭を下げて、アイリスが去っていくのを見送ったのだった。


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