「父上、今、なんとおっしゃいましたか!?」
息子の剣幕に、シンプソン騎士団長は、ふ、とため息をつきながら答えた。
王都にあるシンプソン騎士団長の自宅。
騎士団長、という名前から想像すると驚くほど、その家は質素だった。
もちろん、平民の家よりは大きいが、お屋敷と言うには小さく、その造りも実用的。
使用人も執事が一人、他には侍女と召使いが数人。
外回りや馬の世話は、騎士見習いの少年達が住み込みで行っていた。
シンプソン騎士団長は国王から騎士伯を賜っていたが、貴族と違い世襲の爵位ではない。
一人息子のユーグは、まさに無位無冠。
平民の子どもと大差はない。
「アイリス嬢がエドワード王子殿下と正式に婚約された」
「……!! そんな。アイリスはそんなことはひとつも言っていませんでした!」
久しぶりに騎士団の宿舎から戻った父と息子は、質素ながらも料理番の心づくしの昼食を囲んでいる最中だった。
ユーグがテーブルを叩いた拍子に、十字の切り込みの入ったパンがぽん、と宙に飛び出し、スープ皿に飛び込む前に、シンプソン騎士団長は左手で器用にパンをキャッチした。
頑固そうな息子の顔を前に、騎士団長から思わず、ふう、とため息がもれる。
「王家から打診があったのは、数年前からと聞いている。はっきりと決まるまで、ノーフォーク侯爵家としても公言しなかったのだろう」
「アイリスはたった十二歳です! 婚約なんて……早すぎる」
「エドワード王子殿下は第二王子だが、それでも婚約者には王子妃教育をしなければならない。これから何年かかけて王宮に通わせ、十六歳か、遅くとも十八歳の成人までには結婚させるはずだ」
ユーグは下を向いた。
今、自分が悔しい顔をしているのがわかる。
悔しくて、腹が立って。……情けなくて。
父親に、自分の顔を見られたくなかった。
「……ユーグ、おまえも従騎士だろう。早ければ来年にも騎士に叙任される。おまえもアイリス嬢も、もう子どもとは言えない、ということだ。おまえがアイリス嬢に憧れているのは、知っている。だが、もう夢は捨てろ。そもそもおまえには爵位すらない。侯爵令嬢のアイリス嬢とは……」
「父上!!」
「今度は何だ」
「騎士に叙任してください。国王陛下にお願いしてください。できるだけ早く」
「はぁ? 一体、何を言っている!?」
「一人前の騎士になって、騎士団に入ります。王子の婚約者になったのなら、騎士団から護衛騎士が付くでしょう。私はアイリスの護衛騎士になります!」
「ユーグ!! 何バカなことを言っているんだ!! 王族の護衛騎士には、近衛から身分の良い、眉目秀麗な騎士が選ばれるものだ。なんでおまえのような若造が護衛騎士になれるんだ!!」
「やってみなければわからないでしょう!! 近衛より優秀な騎士がいたらどうするんですか!! 国王陛下の御前でトーナメントで優勝したらどうするんですか!! それでもチャンスがないと!?」
「くーっ!! 父親として言いたくはないが、ユーグ、鏡を見てみろ! 悪いがおまえのどこが眉目秀麗だ! 十人並みだろうがっ!」
ユーグは一歩も引かない。
この日、父子の話し合い、いや、もしかしたら罵り合いは、それから何時間も続いたのだった。
***
「アイリス」
そう呼ばれて、アイリスは両親の前に進み出た。
夕暮れのオレンジ色の光が差し込む、ノーフォーク侯爵邸の書斎だった。
窓の前に置かれた大きな執務机の前に、父である侯爵が座り、母である侯爵夫人は、ソファに腰を下ろしていた。
侯爵は執事に案内されて書斎にやって来たアイリスを一瞥する。
豊かな青い髪は柔らかなウェーブを描いて、背中に流れていた。
ぐんと背が伸び、すでに母である侯爵夫人と身長は変わらない。
その少女らしくほっそりとした体を、最近王都で流行中の、細い青のストライプ生地で仕立てた軽やかなコートドレスに包んでいた。
この数年で、アイリスはずいぶん大人っぽくなった、そう侯爵は思った。
大きな紫色の目は表情豊かで、とても愛らしいのだが、侯爵夫妻は、貴族令嬢としては感情をあらわにし過ぎる、とひそかに心配していた。
アイリスはまだ十二歳。
とはいえ、そろそろ、天真爛漫なアイリスの表情を、由緒あるノーフォーク侯爵家の令嬢に、そして第二王子の婚約者にふさわしいものに変えなければならない。
侯爵が口を開く。
「国王陛下から正式なお手紙をいただいた。おまえは正式にエドワード王子殿下の婚約者となることが決まった。近く、婚約式の日取りが決まる」
「え!?」
「私達は何度も話し合った。しかし、もとより、臣下としてこの縁談をお断りすることはできない」
「お父様……」
ぼんやりと両親を見つめる様子に、侯爵夫人がさっとアイリスに近寄ると、娘を抱きしめた。
「……アイリス、あなたは、エドワード王子殿下の立派な婚約者に、そしていずれは王子妃に、ならなければなりません」
侯爵夫人はアイリスの紫色の目をまっすぐに覗き込む。
「よいですか。王妃殿下のお手配により、王子妃教育も始まります。アイリス、立派にこなさなければなりませんよ」
「お母様……」
「覚えていますね? あなたはいつでも、賢く、公平で、常識がある人間でなければなりません。殿下の立派な婚約者となることが、ノーフォークの名前にふさわしいのです。よいですか、アイリス・ノーフォーク」
侯爵夫人は、じっとアイリスを見つめた。
「ノーフォーク侯爵家にふさわしい人間になりなさい」
厳しい声が、ムチのようにアイリスを打ちつけた。
アイリスは一瞬、ぴくん、と体を震わせるが、「はい、心得ております。お父様、お母様」と言って、美しくカーテシーをした。
ノーフォーク家の教育は厳しい。
女子だからと手加減されることはなく、礼儀作法だけでなく、男子同様の学問に体術、剣術、馬術までアイリスに課せられていた。
優しい姉のマーガレットは、隣国のノール王国に嫁いだばかりだった。
いつも自分をかばってくれた姉はいない。
(わたくしは、自分で何とかしなくちゃ……大丈夫。何とかできるわ)
アイリスがそのまま父の書斎を出ようとした時だった。
「アイリス。ユーグ君にはもう、手紙を送らないように。彼は正騎士になるために、騎士団に入ったそうだよ。彼の邪魔をしないように、いいね?」
父の言葉に、アイリスははっとして、振り返った。
「でも、お父様」
アイリスは心細げに言った。
「ユーグに、わたくしが婚約をしたことを知らせたいのです。何でも話せる幼なじみは何人もいませんわ。ユーグは、わたくしの大切な————お友達なのです」
「アイリス」
侯爵はアイリスからす、っと視線を逸らした。
「ユーグ君は、もう知っているよ」
「……!!」
アイリスは言葉を失った。
「アイリス、大人になりなさい。おまえはエドワード王子殿下に将来の伴侶として選ばれ、ユーグ君は、お父上のような立派な騎士団長になるために、騎士の道を歩き始めたのだよ。それぞれに成長する時期が来た、と思わないか?」
アイリスは、じっと父を見つめた。
改めてもう一度、カーテシーをすると、今度こそ父の書斎を出たのだった。
書斎のドアが閉まると、侯爵夫人は不安そうな様子で、夫を見上げた。
「あなた……ちょっとアイリスに厳しくしすぎたのでは」
「ローズマリー、もう話は決まってしまったのだ。アイリスは、王子の婚約者として、完璧な令嬢にならなければならない」
そして全てが、変わった。