「聞こえなかったか? アイリス・ノーフォーク! おまえとの婚約を破棄する、そう私は言ったのだ」
ローデール王国王宮。
鏡のように磨き抜かれた、優美な金と白の回廊にそぐわない大声が響き渡る。
回廊の先には、王国の誇る大きなバンケットホールがある。
今は国賓を招いて行われている夜会の真っ最中だ。
アイリス・ノーフォーク侯爵令嬢。
豪華なホールの中央に立っているのは、珍しい、青い髪をした令嬢だった。
ローデール王国でも名門の家門、ノーフォーク侯爵家の一人娘である。
美しく装ったアイリスに指を突きつけるようにしているのは、金髪に青い瞳をした、アイリスの婚約者。
ローデール王国の第二王子、エドワードだった。
「……おまえのその、冷たい、澄ました顔が嫌なんだ。いつも上品で、真面目で。おまえが表情を変えることはあるのか? まるで作りものの人形のようじゃないか。私は人形を妻にする気はない」
美しい容姿をしたアイリスの婚約者は、しかし容赦ない言葉で、アイリスを責め立てていく。
エドワードは手に持っていたものを、アイリスに突き出した。
「おまえとの婚約は破棄する。国外追放だ。侯爵家を出て、他国で平民として生きるがいい。自分が苦しめた身分の低い者の苦しみを味わうといいのだ……!!」
ほら、とアイリスに1枚の紙が投げつけられた。
「愚かで物覚えの悪いおまえのために、書面にしてやった。『アイリス・ノーフォークとの婚約は破棄。王家反逆の罪にて、国外追放。侯爵令嬢の身分は剥奪』」
ぱさり、と床に落ちた紙を、アイリスは拾い上げた。
(婚約破棄……王家反逆……国外追放……身分剥奪……)
恐ろしい言葉が並ぶ文面。
(わたくしは、何かをしてしまったの———!?)
その瞬間、アイリスの目の前が文字通り真っ暗になった。
***
「ユーグ、いいか、騎士は姫君を守るものだ。アイリス嬢をしっかり守れ。かすり傷ひとつ付けるな。おまえも騎士団長の息子なら、死ぬ気で任務を果たせ」
「はいっ、父上!!」
時は遡り、アイリスがまだ、小さな女の子だった頃のこと。
王都にあるノーフォーク侯爵邸。
庭を見渡す来客用のサロンから、勇ましい声が聞こえてきた。
侯爵邸ではあまり聞くことのない、元気な少年の声に、召使い達が何事かと耳を澄ます。
「……まあ、シンプソン様、どうぞそんなに厳しくおっしゃらなくても。ね、ユーグ君?」
サロンのソファに腰を下ろしたノーフォーク侯爵夫人が、微笑を浮かべて、少年にうなづいた。
しかし、筋肉質で大きな背中をピシリと伸ばし、立ったままのシンプソン騎士団長は厳しい表情を崩さない。
「ユーグは何年かしたら従騎士となり、一人前の騎士を目指す身。それでなくとも、一人っ子のせいか、こいつは甘えん坊で泣き言が多いのです。今から厳しくしなければ」
茶色い髪に、緑色の目をした少年は、不名誉にも甘えん坊で泣き言が多いと断言され、恨めしそうに父親を見上げた。
ノーフォーク侯爵夫人が、少年を労るように話しかけた。
「ユーグ君、アイリスと一緒に遊んでちょうだいね。マーガレットも妹を見てあげて」
「はい、お母様」
「おかあさま、わたくしは大丈夫でしゅ!」
マーガレットがにこやかに返事をすると、その隣で小さな女の子も負けじと声を張り上げた。
子ども達の返事に表情を緩めると、ノーフォーク侯爵夫人は騎士団長を促した。
「子ども達は大丈夫ですわ。主人が待っております。どうぞ書斎へ」
「恐れ入ります」
大人達がサロンから出ていくと、青い髪にリボンを結んだ小さな女の子が、ニコニコと笑いながら少年の手を取った。
「わたくしはアイリス。あなたはだぁれ?」
「ユーグ」
マーガレットが優しく、小さなアイリスの手を取った。
ユーグにうなづきかける。
「こんにちは、ユーグ君。わたくしはアイリスの姉のマーガレットよ。あなたが小さい時に会ったことがあるの。覚えているかしら?」
マーガレットが姉らしい穏やかさで話しかけると、ユーグは顔を真っ赤にした。
気まずそうに小さく首を振る。
「ふふ。小さかったから、覚えてなくて当たり前ね。さ、あなたのお父様がご用を済ませるまで、一緒にお庭に行きましょう」
「おねえさま、お庭におかしはありましゅか?」
青い髪を揺らして、アイリスがマーガレットとユーグの間に割って入った。
「アイリス、お菓子がほしいの? じゃあ、お庭にお茶の用意をしてもらいましょう」
「おねえさま、だいしゅき!!」
アイリスがユーグをじっと見上げた。
まるでマシュマロのような、柔らかそうな頬。
大きくてキラキラしている目は、不思議な紫色だった。
髪にもリボン。ドレスにもリボン。
まるでお菓子のようなかわいい少女。
それが、ユーグの出会った、アイリス・ノーフォーク侯爵令嬢だった。
ユーグの心臓が、とくん、と音を立てた。
そんなことは知らないアイリスが無邪気にユーグの手をくいくいと引く。
「ユーグ、かけっこしましょう!!」
そう叫ぶと、アイリスはくしゃ、っと顔いっぱいの笑顔になった。
小さな手が、ぱっと離れて、ぎゅっと握りこぶしを作ると、ドレスを翻して、アイリスは走り出した。
お菓子のように可愛い少女は、案外元気いっぱいだった。
「———アイリス!」
ユーグは叫んだ。
「アイリス! 待って!」
この小さな手は、離してはいけない。
ユーグは思った。
『ユーグ、いいか、騎士は姫君を守るものだ。アイリス嬢をしっかり守れ。かすり傷ひとつ付けるな。おまえも騎士団長の息子なら、死ぬ気で任務を果たせ』
『はいっ、父上!!』
ユーグは走り出した。
アイリス嬢をしっかり守れ。
かすり傷ひとつ付けるな。
騎士は姫君を守るものだ。
(アイリスの手は、絶対、離さない)
この日、ユーグ・シンプソンはそう心に決めたのだった。