大理石の床の上に横たわったまま、ふわり、と微笑んだアイリス。
その、アイリスらしくない、無防備な微笑みに、人々は驚いた。
アイリスがとても可愛らしかったのだ。
その意外な笑顔に、なぜかエドワードが顔を赤くした。
パチパチと高速で瞬きをすると、耳まで赤くなった。
「アイリス……?」
そろそろとエドワードがアイリスに手を伸ばそうとする。
しかし、そんなエドワードを遠慮なく手で押しのけた人物がいた。
「アイリス!! すみません、道を開けて! どうして皆、何もしないんだ!! アイリス、意識はあるのか!? 返事をしてくれ! 誰か、医師を呼ぶんだ! ノーフォーク侯爵! 侯爵夫人!! 早くこちらへ!」
早口で叫びながら、ガチャガチャと腰に下げた剣を鳴らして、誰かがアイリスの傍に走り込んできた。
自分の元にひざまづく、騎士姿の青年をアイリスは見た。
短くカットした茶色い髪。
深い森のような緑色の瞳は揺れて、動揺した想いを映し出している。
ユーグだわ。
アイリスは安心して、まるで幼い少女のように、信頼する相手に両腕を差し出した。
ユーグがしっかりとその手を取り、そっと抱き起こしてくれる。
「アイリス、大丈夫か、頭は打っていないか、どこかに怪我は……」
「ユーグ、大丈夫よ」
アイリスが喋ったことで、周囲に、ほっとした空気が流れた。
まるで金縛りから解けたように、アイリスの両親も、ようやくこちらに向かって動き出した。
ユーグに体を支えてもらいながら、床の上に座っているアイリスは、ふと、自分の目の前に第二王子であるエドワードがいることに、目を丸くした。
「まあ、王子殿下……こんな格好で、失礼いたしました。ええと、リリベル男爵令嬢でしたかしら? こんな格好で失礼を。嫌だわ、わたくし、なぜ床の上に寝ていたのかしら?」
アイリスの言葉に、一旦緩んだ会場の空気が、また緊張する。
どういうことだ……!?
そんな空気感が伝わってくる。
アイリスは恥ずかしげに体を起こし、優しくリリベルにも微笑んだ。
なぜ自分が床に横たわっていたのか、よくわかっていないなりに、気恥ずかしい想いをしているようだ。
アイリスの言葉に、ぎょっとするエドワード。
ユーグの視線が、すっと険しくなる。
「ア、アイリス!?」
いつも冷静な母がついにわっと泣き出した。
そばにいた女性が、慌てて母に寄り添い、話しかけている。
母は首を振ると、よろよろとしながら、アイリスの元に向かう。
いつも怖かった父は、ついにアイリスの元に駆け寄った。
震える手で、アイリスの手をぎゅっと握り締める。
アイリスは、その父の手にほろりとした。
(まあ、お二人とも、わたくしのことを、大切に思ってくださっていたのね)
「お父様、わたくしなら大丈夫ですわ、どうぞ安心してくださいませ。一体、どうしてしまったのかしら……。貧血かもしれませんわ。お父様、申し訳ございませんが、わたくしを控室まで送ってくださいませんか?」
そう言うと、アイリスは済まなそうな顔で、エドワードを見上げる。
「とんだ粗相をいたしまして、お恥ずかしい次第でございます。王子殿下もどうぞわたくしのことはお気になさらず……」
ユーグがアイリスをそっと立ち上がらせ、すかさず父がアイリスを抱き上げるのを、呆然と見ていたエドワードは、思わず未練がましく口走った。
「アイリス? 嘘だろう? きみは私の婚約者じゃないか。それを」
父の腕の中で、アイリスは目を丸くした。
「……婚約者? わたくしが、王子殿下の?」
アイリスはエドワードを見つめた。
エドワードも、言葉を失って、アイリスを見つめる。
その瞬間、エドワードの隣から、イラついた声が飛んだ。
「ちょっと!! アイリス様っ!! エドワード様に勝手に話しかけないでちょうだいっっ!!」
アイリスが視線を下げると、顔を真っ赤にしたリリベルが、エドワードの腕を引っ掴んで、ぐいぐい引っ張っていた。
アイリスは首を傾げ、不思議そうにそんなリリベルを見ている。
アイリスを抱き上げている侯爵が、恐ろしい顔でリリベルを見下ろしているが、本人は全く気づいていないようだった。
やがて、アイリスは、あ、という表情に変わると、うなづいた。
微笑ましいものを見るような顔になる。
「まあ。ご令嬢をお待たせしてはいけませんわ、王子殿下。では、わたくし達はこれにて失礼いたします。さあ、お父様、お母様、ユーグ、参りましょう」
その様子は、不思議なことに、今起こったことに対して、アイリスの記憶がないとしか見えず。
エドワードは自分がそもそも全てのことを始めた元凶であるのに、動転してアイリスを追いかけようとした。
「待ってくれ!! アイリス……本当に記憶がないのか!? 私のことを忘れてしまったのか?」
「エドワード様っ!! そんなことはどうでもいいでしょう!? もうあんな女のことは放っておいて、ダンスでも踊りましょうよっ」
金切声を上げるリリベルと、彼女にぐいぐいと連行されていく、呆然とした様子のエドワード王子。
夜会会場はもう、混沌とした状況になってしまったのだった。
***
「これこそまさに、蜂の子を突いたような、騒ぎだな」
ここまで呆然として口を挟めなかったローデール国王夫妻の隣に座る、隣国ノール王国の国王が、呆れたように呟いた。
「まぁ、ご子息の自主性を重んじて育てられたのですなぁ。あんな状況になっても口も出さず見守る姿勢に、感服いたしました。はっはっはっ」
本日の主賓である。
このノール国王を歓迎する夜会だったはずだが、そのことはすっかり忘れられてしまっている感が会場に漂っていた。
「あの、エドワード王子に婚約破棄されたご令嬢は、ノーフォーク侯爵の娘さんですかな?」
ノール王国国王は、見事な銀色の髪に、人目を引く美貌の男性だった。
静かにしていても、妙な迫力があるので、実はローデール国王は苦手に思っていたが、そうも言っていられない。
「は、まぁ、婚約破棄、はエドワードが勝手に言っただけで、我々は何も……」
「ふ。貴殿はそう言っても、名誉を傷つけられた侯爵側の人間は、『あれは間違いでした』で済ませるわけにはいかないだろう。もちろん、アイリス嬢本人はもちろんのこと。夜会に出席した全員が見ていたわけですからな。もちろん、私も」
ノール王国国王の冷たい声に、ローデール国王は、思わず体が震えるのを感じた。
(それにしても、妙だった。あの時、私は確かに、魔法の気配を感じた。この、魔法がとうに途絶えた、ローデール王国で……)
ノール王国国王は、物思いに沈むように、こめかみを指で軽く叩くと、目の前に用意されていたワインに口を付けた。