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第2話 小さな予感

「ノーフォーク侯爵令嬢、本日の護衛を担当するシンプソンです」


 茶色い髪を短くカットした青年騎士がアイリスに礼を取った。


「ユーグ。ありがとう。よろしくね」


 深い森のような色。

 見慣れた、緑色の瞳をした騎士に、アイリスはすっと口角の上がった、端正な微笑みを見せた。


 とはいえ、せっかくかしこまって、礼儀正しく苗字で名乗ったのに、いつも通りに気軽に上の名前で呼ばれて、ユーグ・シンプソンはちょっと困ったような表情を見せた。


「アイリス様。名前呼びを王子殿下が耳にすれば、不機嫌になられるのでは」

「今だけよ」


 アイリスはそう言って、きっと本来の笑顔なのだろう、子どものような茶目っ気のある表情を一瞬浮かべた。


 アイリスとユーグは、実は幼なじみ。


 王都の騎士団長を務めるユーグの父と、アイリスの父は友人同士でもあった。

 成長してからは、昔のように「アイリス」「ユーグ」とは言い合わないけれど、お互いによく見知った仲なのは変わらない。


「アイリス様、では参りましょうか」


 ユーグが手を差し出し、アイリスが馬車に乗るのを手伝ってくれた。


 付き添いのメイド一人とともに馬車に乗り込み、アイリスは王宮へ向かった。

 今夜は、隣国であるノール王国から、現在ローデール王国を訪問中のノール国王陛下を招いての歓迎夜会が開かれる。


 エドワード王子の婚約者であるアイリスも、当然、出席する必要があった。


 王宮までは馬車でほんの二十分ほど。

 あっという間に着くはずだった。

 しかし、今日は大きな夜会が開かれるだけあって、出席者の馬車が列になって進んでおり、いつもより時間がかかっていた。


 その時。


 ガタガタっ! と大きな音がして、馬車が急に止まった。

 馬達が首を振り、足踏みをする様子が伝わってくる。人の叫び声も聞こえた。


「お嬢様、お怪我はありませんか?」


 メイドのセイラが、すぐにアイリスに声をかけた。


「大丈夫よ。びっくりしたわね。何があったのかしら?」


 二人が話していると、カツカツという音がして、馬が近づいてきた。

 馬車の窓を叩く軽い音とともに、窓の外に馬に乗ったユーグの姿が見えた。


 アイリスが窓を開くと、ユーグが言った。


「アイリス様、前の馬車でちょっとした事故があったようです。心配はありませんので、そのまましばらくお待ちください。私は様子を見てきます」

「事故……?」


 そう言われて、アイリスは馬車の窓から、顔を出して、前方を見る。

「ア、アイリス様っ! 危ないですわ」

 焦ったメイドの声が聞こえた。


「大丈夫よ、セイラ。ああ、あれね。前の馬車が急停車したんだわ。……え?」


 アイリスは目を見開いた。


 たくさんの馬車でごった返す王宮前の通り。

 一台の馬車のドアが急に開いたかと思うと、一人の令嬢が馬車から飛び出そうとしたのだ。


 慌てて、居合わせたユーグが、令嬢を受け止めたが、危ない。

 乗降時には、馬車のドアの下にステップを置かないと、地面から高すぎるし、そもそも令嬢のドレス姿では、足元なんて見えないからだ。


 無事に馬車から降りた令嬢は気が動転しているらしく、周囲も構わず泣き出してしまったようだ。


 その令嬢の、見事な黒の巻毛に、アイリスは見覚えがあった。


「……あれは、ウェズリー伯爵家のアナ様じゃないかしら」


 * * *


「アイリス様、大変ご迷惑をおかけいたしました…………、馬車に同乗させていただいて、心から感謝いたします」


 馬車の中で、アナ・ウェズリー伯爵令嬢は、申し訳なさそうに、その艶やかな黒の巻毛を揺らして、頭を下げた。


「アナ様、お気になさらず。お怪我などはありませんか?」


 問われて、アナはそっと首を振る。


「大丈夫です。本当に、お恥ずかしいですわ。実は……今日の夜会に向かうあの馬車の中で、婚約者に、突然、婚約破棄されたのです。真実の愛を見つけたとか、なんとか……バカにしていますわ。わたくし、あまりにびっくりして、もうあの場にいたくなくて。でも、無茶なことをしましたわ。反省しております」


 そう言って、アナは眉を下げた。


 アイリスも内心はびっくりしていたが、それは表に出さず、そっとアナの手を握った。


「それは動転しますわ。アナ様、この後は……?」


「別の馬車で、両親も王宮に向かっているはずですの。王宮に着いたら、まず両親を探しますわ。今は、婚約者には会いたくありません。もうたくさん」


「アナ様、わたくし達もお手伝いいたしますわ。ご両親を見つけましょう」


 アイリスの背後で、セイラもこくこくとうなづいていた。

 そんな二人に、アナは弱々しい微笑みを見せた。


「アイリス様———、本当にありがとうございます。わたくし、恥ずかしながら、アイリス様のことを誤解していました。完璧なお姿のとおり———冷たい、人間味のないお方なのかと。噂を信じたわたくしが愚かでした……」


 アナはそう言って、何度も頭を下げたのだった。


 * * *


 幸い、ウェズリー伯爵夫妻は、すぐ見つかった。


 涙を流す娘をしっかりと抱きしめて、伯爵夫妻は、アイリスとユーグに何度も礼を述べた。


 まず控室に行って、アナの身支度を整えてから、ひとまず予定どおり夜会に参加するという。


「国王陛下のご挨拶まではいませんと」


 アナの父であるウェズリー伯爵はそう言って、労りを込めたまなざしで娘を見つめた。


「後のことは、屋敷に帰ってから、家族で相談します。アナは幸運でしたよ。居合わせたのが、あなた方で幸いでした。アイリス嬢、あなたは思いやりのある、とてもしっかりとしたお方ですね」


 最後にもう一度、アイリスとユーグ、それにセイラにも礼を述べて、ウェズリー伯爵は妻と娘を伴って、控室へと向かって行った。


 そんな彼らの後ろ姿を見つめながら、セイラがつぶやいた。


「きっと大丈夫よ……、人生はいつでもやり直せるわ……」


 艶やかな黒い巻毛が揺れる、小さなアナの後ろ姿。

 アナを大切に両側から支えながら歩く、ウェズリー伯爵夫妻の姿。


 その時の光景は、なぜか、いつまでもアイリスの心に、残ったのだった。


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