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第65話『真実の雫』

 通りに規則正しい足音と、荒い息遣いが響く。

 私とレンは走っていた。

 胸が苦しい。

 体中が酸素を求めて悲鳴を上げている気がする。

 だけど、この足を緩めることはない。

 一刻も早く追いつかなくちゃ!

 その思いで走り続けた。


 やがて、先の方に一人の影が見えた。

 私たちは、できる限りの声で叫ぶ。


「ユウト!」

「ユウトくん!」


 影——ユウトくんが、こちらを振り返った。


「あれ? どうしたの二人して?」


 はぁ、はぁ……と乱れる息。

 話したいのに言葉が出てこない。

 急に止まったせいだろう。

 噴き出す汗が流れ落ちて、地面に黒い染みを作った。


 それはきっと、隣のレンも同じで。

 だけど、そんなのは些細ささいなことだと言わんばかりに、ユウトくんの肩を掴んだ。


「ユウト! なんで日曜日の試験に遅れたんだ!」


 一瞬、驚いた顔を見せるユウトくん。

 だけど、すぐにそれは悲しげな笑みに変わって。


「言ったろー。寝坊と、書類不備と、バスに乗り間違えたんだって」


 何度も言わせんなよと、彼は笑う。

 だけど、私は首を横に振った。


「違う! 結果的にそうなったとしても、本当の理由はそうじゃない!」

「ユウト、俺たち女の子とお婆ちゃんから話を聞いたんだ」

「……なんだ、聞いちゃったのか」

「詳しく聞いたわけじゃないけどな」

「そっか……」


 ユウトくんは観念したように息を吐く。

 そんな彼を、私たちは正面から見つめた。


「ねぇユウトくん、教えて。日曜日、何があったのかを」

「お前の口から全てを聞かせてくれ」

「いいけど……大した話じゃないよ?」


 そう前置きをして、彼はぽつりぽつりと話し出した。

 日曜日に何があったのかを……。



 2回目の受験失敗の理由。

 試験会場に早く到着したユウトくんは、ミユを待つために近くのファーストフード店に入った。


「ミユとの待ち合わせにはまだ時間があるし、書類の確認をしておくか」


 そう言って、ユウトくんは机の上に書類を並べた。

 隣の席には小学校低学年くらいの女の子と、お父さん、お母さんがいた。

 聞こえてくる話から、家族で遊びに行くところのようだった。


 お父さんは忙しい人のようで、それだけに女の子は今日をとても楽しみにしていたみたい。

 大きな身振り手振りで、嬉しそうに話をしていた。


 そのとき——。

 女の子の振り上げた手が、ユウトくんのドリンクにぶつかった。

 買ったばかりのドリンクは、ほぼ満タンに入っていて、机の上はジュースの海。

 もちろん、書類だってびしょ濡れになってしまった。


 慌てて拭こうとしたけれど、時すでに遅し。

 濡れた書類は張り付き、がそうとして破れて……。

 そして、使い物にならなくなってしまった。


「女の子は泣きべそかいてさ……。両親は平謝りでさ……」

「だけどユウトは、気にしなくていいって言ったんだよな」


 レンの言葉にユウトくんは静かにうなずく。


「書類なら、また取り直せばいいし。それよりも、せっかくの日曜日を、こんなことで台無しにしてもらいたくなかったからさ」

「その子、言ってたよ。ユウトくんが『ちょっと間違っただけだから、怒らないであげてくださいね』って笑ってくれたこと、本当に嬉しかったって」

「そっか……それなら良かった」


 そう言って、彼は微笑んだ。


「ユウト、3回目の受験失敗の件だけど」

「うん、それも話すよ」



 3回目の受験失敗の理由。

 それは、この前の日曜日のこと。

 ユウトくんがバス停で免許センター行きのバスを待っていたところ、そこに一人のお婆ちゃんがやって来た。

 お婆ちゃんは困った様子で、うろうろしていた。


「お婆ちゃん、どうしたの?」

「ああ、はい。孫に会いに行くところなのですが……どのバスに乗ったら良いのか、わからなくて」


 お婆ちゃんの手にはメモが握られていて、そこには行き先が書いてあった。


「あー……それならこっちのバス停だよ」


 そう言って、ユウトくんは案内してあげた。

 バス停にはちょうどバスが到着していて、お婆ちゃんはお礼を言って乗り込もうとした。

 ……だけど、足が悪いみたいで。

 バスのステップを上がるのに、とても苦労している様子だった。


「お婆ちゃん、俺が支えてあげるよ」


 ユウトくんはお婆ちゃんを支えながらバスに乗り込み、座席に座らせてあげた。

 ふぅ……。

 と、一息ついたところで……。


「バスの扉が閉まっちゃったのか」


 そう言うレンに、ユウトくんはうつむいた。


「そのままバスは走り出してさ……でも、次の停留所で下りて引き返せば間に合うと思ったんだ。……だけど、お婆ちゃんが急に苦しみだして」


 胸を押さえて苦しみだしたお婆ちゃんに、バスは路肩に緊急停止。

 乗客が救急車を呼んでくれて、その間ユウトくんはずっと、


「お婆ちゃん! 頑張ってお婆ちゃん!」


 って声をかけて励ましていたって。


「それを見た救急隊員の人が、ユウトくんを孫だと勘違いして……」

「一緒に救急車に乗せられて、病院に行くことになったのか」

「……そう」

「そ……そんなの! 全然、ユウトくんは悪くないじゃん!」

「だよな! 人助けをしたんだし。いて言うなら運が悪かった、それだけだろ」


 だけど、ユウトくんは俯いたままで。

 そんな彼に、私は尋ねる。


「ちなみに、1回目の寝坊の理由は……?」

「絶対にミユと合格したくて……徹夜で勉強してたから……」


 私たちは深く息を吐いた。

 1回目はミユのため。

 2回目は見知らぬ女の子のため。

 3回目は、その女の子に会いたいお婆ちゃんのため。

 どこまでも、やるせない。


「ねぇ、ユウトくん。このこと、ミユは知ってるんだよね?」


 その問いに、彼は首を横に振る。


「な、なんで! 理由を知ったらミユだって、あんなに怒らなかったかもしれないのに!」

「今からでもいい、話してみようぜ!」

「いや……」


 静かに顔を上げるユウトくん。

 そして、私たちに向き直る。


「どんな理由があったとしても、結果として俺は試験を受けられなかったわけで。それは、ミユの期待を裏切ったことには変わらなくてさ」

「そうかもしれないけど……でも!」

「ううん。二人とも、ありがとう。俺のために、こんなに必死になってくれて」

「ユウト、お前……」

「あはは、そんな顔すんなって。俺は大丈夫だからさ……」


 そのとき、笑っていたユウトくんが急に背を向けた。

 その頬にしずくが光った気がした。


「二人とも、ほんとありがとう……」


 そう言って、ユウトくんは走り出す。

 一度もこちらを振り返らずに。


「俺は大丈夫」と彼は言う。

 でも、その姿はとても大丈夫には見えなくて。

 去っていく悲しげな背中は、私の目に強く焼き付いた。


 それは、レンと別れ家に帰ってからもずっと、この胸を締め付けていた……。

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