レンと別れて、女子のスタートラインに向かう。
ふと空を見ると、風で流されていく雲が目に入った。
梅雨の晴れ間となったこの体育祭。
雨が降っていたら、もっと大変だったんだろうな……。
そんなことを思いながら、スタートラインに立った。
湿気を含んだ風が、私の髪を揺らしていく。
南東の方角からの風。
少しだけ蒸し暑さを感じるそれは、もうすぐ本格的な夏が来ることを示している。
「ユイちゃん」
隣に並んだナツミさんが声をかけてきた。
大きなリボンと青いドレスが可愛い、不思議の国コスプレ。
ナツミさんによく似合っている。
「いつも、ショウくんが迷惑かけてごめんね」
ナツミさんは、そう言って申し訳ない顔をした。
「ユイちゃんは、ショウくんの初めての彼女の話って聞いた?」
「確か……中一のときに、大学生と付き合ったって」
ショウ先輩の初めての彼女。
大学生だったその人には複数の彼氏がいて。
他にも数々の恋愛法違反をしていたって。
それで、先輩の恋愛観は大きく変わってしまったと聞いている。
「……その人、私の
「えっ?」
「だから、私がもっと止めていれば、ショウくんはこんな恋愛の仕方じゃなかったかもしれなくて」
そう言って下唇を噛む。
イトコと元親友のお姉ちゃん。
〝元〟というところに悲しさを感じる。
間に挟まれたナツミさんも、きっと大変だったんだろうな……。
私は、首を横に振った。
「ナツミさんのせいじゃないです」
「ユイちゃん……優しいんだね。ショウくんが好きになった理由がわかる気がする」
「ええっ!?」
不意にそんなことを言われて、思わず驚きの声が漏れてしまった。
そんな私にナツミさんは微笑むと、男子のスタートラインに目を向けた。
「うーん……」
「どうしました?」
うなるナツミさんに、私は首を傾げる。
「あ、ううん。さっきの紅薔薇姫の彼、どこにいるかなと思って」
「あー。ちょっと待ってください。えーと……あ、いたっ!」
「えっ、どこ?」
「右から2番目、前から3番目のとこです」
「あ、ほんとだ……。ユイちゃん、見つけるの上手ね」
「そうですか?」
驚くナツミさんに、私は笑顔を見せた。
そんな私に、彼女はそっとささやく。
「ねぇ。紅薔薇姫の彼って、ユイちゃんの彼氏?」
「ち、違いますよっ!」
咄嗟に否定の言葉が出る。
つい強い口調になってしまうのは、私の悪い癖。
「そっか……ユイちゃん、わかりやすいのね」
「え……何がです?」
「ふふっ、上手くいくといいね」
微笑むナツミさんを前に、顔が熱くなる。
でも、そんな顔を見られるのが恥ずかしくて。
思わず私はうつむいた。
「……でもね、ユイちゃん。それはそれだから。リレーは、うちらが勝たせてもらうからね」
顔を上げると、ナツミさんはイタズラっ子みたいな笑みを浮かべている。
「わ、私たちだって負けませんからっ!」
そう答えて、私も強気な笑顔を返した。
男子のスタートラインの前で整列している選手たち。
様々なキャラクターのコスプレ姿で、ちょっとしたお祭り騒ぎだ。
——でも。
やっぱり私の目は、どんなに人がいてもレンのことを瞬時に見つけ出す。
これは、私とレンだけの特殊能力だ。
これからのレースに集中しているのかな。 レンは、真っ直ぐ前だけを見ている。
「むー。ちょっとくらい、こっち向け。ばーか」
真面目なその横顔に、周りの人にも聞こえないくらいの小さな声でそっと文句を言ってやった。
——その瞬間、レンが不意に振り向いた。
重なり合う視線。
思わず、胸がドキッと大きく脈打つ。
な、なんでっ!?
誰にも聞こえてないはずなのに!
動揺する私の前で、レンの手がすっと上にあがった。
バトンを真っ直ぐ空にかざす姿。
それは、まるで1位を取ると宣言しているみたいだった。
レンは、勝利のために全力を尽くすだろう。
それなら私も、今の自分にできることをやらなくちゃ!
私はうなずくと、足を肩幅に開く。
そして、静かに瞳を閉じた。
ぐぐぐっと全身に力を入れながら、すぅぅぅぅ……と息を吸い込む。
次に、力を抜きながら、はぁぁぁぁ……と長く長く息を吐く。
レンに教えてもらった、リラックスする方法だ。
緊張や、体のこわばりが解れていく……。
心なしか、足首の痛みも軽くなった気がする。
『それでは男子選手の皆さん、スタート位置についてください』
アナウンスの言葉に従い、選手たちがひしめき合って並ぶ。
係員のスターターピストルが空に向けられた。
「位置について……用意……」
パァン!
という音が鳴り響く。
それと同時に、選手たちは一斉に走り出す。
観客から歓声が巻き起こった。
見た感じ、走る選手は二つのタイプにわかれている。
ゴールの順位を考えて、ひたすら真面目に走る人。
コスプレの評価を考えて、演技をしながら走る人。
そんな中、集団から飛び出したのは……!
『おーっと、2年2組の紅薔薇姫だ! これは早い! 他の選手をぐんぐん引き離して行く!』
響く、実況のアナウンス。
「俺が、最初の100メートルをぶっちぎってやる。そうすれば、その後の日野原は楽に走れるだろ?」
そう言ってくれたレンは、今それを実行しようとしている。
レン、頑張れ!
私は、指を組んで祈るようなポーズで彼を見つめた。
『さぁ、紅薔薇姫に続くのは3年1組、不思議の国の猫だー!』
ピンクとスミレ色の縞模様の猫。
ショウ先輩の着ぐるみだ。
先輩も集団から飛び出していく。
『逃がすものかと、紅薔薇姫を追いかける不思議の国の猫! だけど——!』
だけど、レンとの差が縮まることはない。
むしろ、ショウ先輩は少しずつ離されていく。
改めてレンの足の速さに驚いた。
姫のドレス姿で走るのは本当に大変だろうに……!
レンがコーナーを曲がってくる。
もうすぐ100メートルを走り切る。
次は私の番!
ねぇ、お父さん。
この前、お父さんが風に洗濯物を飛ばされて、
「やめてくれ、風! イジワルするお前は嫌いだー!」
なんて言いながら追いかけていたけれど……。
お父さん、ごめん!
私は今から風になるよっ!
「レンっ!」
走ってくるレンに手を伸ばす。
「日野原、頼むっ!」
「任せてっ!」
手の中に伝わる確かな感触。
レンのバトンが、今、私に託された。