目次
ブックマーク
応援する
12
コメント
シェア
通報
第30話『抱きしめて』

「……これは、なんの真似だい?」


 襟首をつかむレンに、先輩は冷ややかな目を向ける。

 だけどレンは、その問いには答えず先輩を睨んだ。


「日野原は、先輩の女癖の悪さに巻き込まれたんじゃないんですか!」

「……まぁ、そうなるかな」

「あっさり認めるんですね」

「まあね。状況は把握してるつもりだよ」

「くっ……! やっぱり、あんたには任せらんねぇ!!」

「……最初から譲る気もないくせに」


 先輩はため息をつくと、レンの襟首をつかみ返した。


「君が何を怖がっているのかは知らないけれど、目の前の現実から逃げてるやつに言われたくないね!!」

「俺が……逃げてるだって?」

「ああ。自分の心と向き合うのを恐れてるように見えるね」

「……先輩に俺の何がわかる!」


 顔と顔を近づけ睨み合う二人。

 襟首をつかむ手に、くっきりと筋が浮かんだ。


「ちょ、ちょっとレン!」

「先輩も、やめてください!」


 まさに一触即発。

 私とアイリが慌てて間に割って入った。


「ふぅ……」


 短いため息。

 先にその手を離したのは、ショウ先輩だった。


「……悪かったね、これはただの八つ当たりだ」

「何を……!」

「こりゃー、不知火! 何しとるかー!」


 レンの言葉を遮って、遠くから響く先生の声。

 舌打ちをしたレンは、先輩を睨んだまま静かに手を離した。


「聞いとんのか、不知火ー!」

「はーい、今行きますってー!」


 先輩は襟を正すと私に微笑む。


「ごめんね、ユイちゃん。驚かせちゃったかな」

「いえ……」


 咄嗟にそう答えたものの、正直、かなり驚いた。

 男の人の喧嘩を間近で見たのは初めてかもしれない。

 それはアイリも同じのようで、なんとか無事に終わってくれたことに胸を撫で下ろしている。


「そうそう、ユイちゃん。今の気持ちに正直になっていいんだよ。きっと月島・・くんは受け止めてくれるから」

「え……」

「でも、俺も譲る気はないけどね」


 そう言って、先輩は手を振りながら去っていく。

 その隣にアイリが並んだ。


「先輩って、案外いい人なんですか?」

「案外って……それ褒めてる?」

「はい。真っ直ぐで、真っ直ぐすぎてキモいです」

「そ、それ……絶対に褒めてないよね?」

「あ、ごめんなさい。言い直します。キモいです」

「……えーと、言い直せてないことに気付くところから始めようか」



 ——不意に訪れた静けさ。

 先程までの喧騒が嘘みたい。

 この場に残されたのは、私とレンだけで。

 風で木の葉が揺れる音とか、コイが池で跳ねる音とか、桟橋の賑わいとか、なぜかやけに大きく聞こえてくる。


 それらの音に包まれた私たちは無言だった。

 私は、うつむいたまま顔を上げることができなくて。


 こんなとき、何て言えばいいんだろう?

 先輩は、今の気持ちに素直になっていいって言っていたけれど。

 肝心の言葉は、喉の奥に引っかかったままで出てこない。


 昔からそう。

 キーホルダーを拾ってもらったあのときだって、レンが私のために傷だらけになって頑張ってくれたのに。

 私はただ泣くばかりで、お礼の言葉すらちゃんと言えなかった。


 さっき、先輩に助けてもらったときもそう。

 先輩と付き合って来た人の心に気付いたら、もう何も言えなくなって。


 なんで私はいつも……。


「……ごめん、私も行くね」


 沈黙が耐えられなくなって、私はそう切り出した。

 このままここにいたら、泣いてしまいそうだったから。


 レンの横を通り抜ける。

 今から走れば、アイリたちに追いつくはず——。


 ——そのとき、不意に腕に伝わる感触。

 私は、レンに手首を掴まれていた。


「ちょ、レン!?」


 驚きの声を上げる私を無視して、レンは手首を引っ張る。


 え……?


 次の瞬間、私は温もりに包まれた。

 そう、私は正面から抱き締められていたんだ!


「ちょ……レン! 何してるの!?」


 驚きの言葉が口から出るけれど、レンの腕は逆に力が込められて。

 少し離れた岸辺や桟橋の人たちの視線を感じて、私はますます焦りだす。

 先を歩くアイリが、ちらりとこちらを振り返った気がした。


「れ、レン、離して!」

「……やだ。離さねぇ」


 な……!?

 子供か!


「日野原が無事で、本当に良かった……」


 つぶやくようなレンの声。

 そのとき私は気が付いた。

 抱き締める腕が、小刻みに震えていることを。


「もう、誰かを失うのは嫌だ……」

「レン……」


 私の体から力が抜けていく。

 こわばっていた心がほぐれていく。

 伝わる体温は心地よくて。

 胸の鼓動は雷みたいに響いてきて。

 私は、彼の背中にそっと手を当てた。


 まだちょっと固いワイシャツと、洗剤の匂い。

 少しだけ汗の匂いもするけれど、それは全然イヤじゃなくて。

 私のために一生懸命走ってくれたんだと思うと、胸の中が熱くなった。


 怖かったのは私だけじゃなかったんだ……。


「日野原……大丈夫だったか?」


 ささやくような優しい声。

 その問いに、私は首を小さく横に振った。


「大丈夫……じゃない」

「ごめんな、遅くなって」

「ほんと、遅いよ……ばか」


 安心したせいなのか。

 素直な言葉と共に、瞳から大粒の涙が溢れ出す。


 さっき先輩から告白されたというのに、私はレンに抱き締められて泣いている。

 先輩に対する想いはもうないけれど、でもそういうことじゃなくて。

 そんな自分がズルくも感じて、涙が止まらない。

 もう少し大人になれたら、こんな気持ちも乗り越えることができるのかな……。


 レンは、私が泣き止むまでずっと抱き締めていてくれた。


この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?