私を乗せたボートは進む。
「先輩はずるい……」
そう言ったあと、私はずっと無言でうつむいていた。
こういうとき、何も言えなくなるのは私の悪いクセだと思う。
先輩からも言葉はなく、ただただボートは陸を目指して進んでいた。
それからどれくらいの時間が経ったのだろう。
ボートはようやく陸地に辿り着いた。
「揺れるから気を付けて」
久しぶりに交わす言葉。
先輩に手を引いてもらいながら、なんとかボートから降りた。
足の裏に伝わる確かな感覚。
久しぶりの大地が懐かしい。
思わず力が抜けて、地面の上に座り込んでしまった。
慌てて立ち上がろうとするけれど、足が震えて上手く言うことを聞いてくれない。
今頃になって、冷たい汗がドッと溢れてきた。
そんな私の耳に、聞き慣れない足音が三つ響いてくる。
「先輩、何でソイツなんかを!」
それは、この状況の元凶である三人組。
私からオールを取り上げ、ボートを流したポニーテールとセミロング二人だった。
ショウ先輩は濡れた前髪を無造作に掻き上げると、彼女たちを睨んだ。
「お前たちがやったのか」
いつになく鋭い口調。
その緊張感に、三人組の顔に焦りの色が浮かんだ。
「だ……だって、ソイツ! 調子に乗って色目使って、先輩の気持ちを
叫ぶポニーテール。
「そ、そうそう! 他にもたくさん遊んでる人がいるって聞くしー……ね?」
「う、うん! 2年の中では、男好きで有名なんですよー!」
それに続くセミロングの二人。
な……なにそれっ!
私、そんなことしてないっ!!
手をキュッと握り締め、彼女たちを睨む。
でも、三人はそんなこと気にした様子もない。
「ほら、こういうのってアレって言うんだよね?」
「えーと?」
「
「そうそれ! やっばー、ウチら正義の味方じゃん?」
私の悪口を言ってるうちに調子を取り戻したのか、勝手なことを言ってギャハハと笑う三人。
自分たちが罪から逃れるために嘘ばかり言って、挙句の果てにそれを正当化する。
その姿に、私の中に怒りが込み上げてきて。
「ふざけないでっ!」
そう言おうとしたけれど。
私よりも先に、先輩の口が開いた。
「……黙りなよ」
静かだけど、威圧感のある声。
それまで騒いでいた三人も、一斉に静まり返る。
「彼女がそんな子じゃないこと、俺が良くわかっているから」
「で、でも、ソイツ!」
「ふうん? 俺の好きな人のこと、まだ悪く言うんだ?」
「ち、違います! ウチらはただ先輩が心配で……」
先輩の視線の圧に負け、三人組はもうそれ以上何も言えなくなった。
それよりも何よりも、またサラッと〝好き〟と言われてしまった……。
思わず頬が熱くなる。
「そこをどいてくれないか」
先輩は三人を蹴散らすようにその真ん中を歩くと、脱ぎ捨てた上着を拾った。
彼女たちは顔を見合わせる。
ポニーテールが恐る恐る口を開いた。
「あ……あの、先輩。私たちまた連絡、待ってますね?」
引きつった笑顔の三人。
「連絡……ねぇ」
先輩はため息をつくと、ゆっくりと振り返った。
「俺のスマホ、誰かのせいで水没しちゃったんだよね」
そう言って、ズボンのポケットを叩く。
「それに、もう君たちと連絡を取るつもりはないから」
「そ、そんな先輩……!」
「それよりも。今は、謝罪の言葉でも考えておけば?」
先輩は、親指で後ろを指し示す。
そこには、怒りの形相でこちらに向かって走ってくる先生二人の姿があった。
若い先生と年配の先生、たぶん彼女たちのクラスの担任と学年主任だ。
先生たちの後ろにはアイリの姿もある。
「上手く謝れば、無期停学くらいで済むかもしれないよ?」
膝から崩れ落ちる三人。
顔色はみんな真っ青だった。
「ほら、お前ら立て! 話は向こうで聞かせてもらう!」
若い先生に引きずられるようにして、彼女たちはふらふらと歩きだす。
その横をすり抜けて、アイリが駆け寄ってきた。
「ユイ!! 大丈夫!?」
「アイリ……」
座り込んでいた私を、アイリが支えるようにして立ち上がらせてくれた。
「ありがとう……。アイリが、先生を呼んできてくれたの?」
「うん。ベンチで本を読んでいたら、ユイが絡まれているのが見えて。それで先生を呼びに行ったのだけれど、まさかこんなことになるなんて……」
瞳に涙を浮かべたアイリが、私を強く抱き締める。
「ごめんね、ユイ! 私、ボートを流されるなんて思ってなくて! こんなことになるなら、先生を呼びに行く前に三人を止めればよかった!」
親友の肩が小刻みに震えている。
でも……。
もし、アイリが助けに来ていたら、三人は彼女もターゲットにしたかもしれない。
それは絶対にイヤだった。
あんな目に合うのは、自分一人だけでいい。
私はアイリを抱き締め返した。
「ううん、ありがとう……」
いつの間にか、足の震えはおさまっていた。
年配の先生が私たちのところに来る。
その手にはタオルを持っていた。
「こりゃ、
「ははっ、いつもご迷惑をおかけしてます」
「ったく……。だが、まあ、今回の
そう言って、先輩の頭にタオルをかけた。
「じゃあ、今回の件はお
「そんなわけ、ないだろう」
先生は、ふかーいため息をつく。
「医務室に別の先生がいるから、まずはそこでジャージに着替えてこい。話は、そのあとでゆっくりと聞かせてもらうからな」
「へーい」
タオルで濡れた頭を拭きながら、軽く答えるショウ先輩。
やれやれといった感じでもう一度息を吐くと、先生は私に向き直った。
「日野原は、怪我とかはないか?」
「あ……は、はいっ! 私は先輩のおかげで」
「それなら良かった。すまんが、日野原と水本にも話を聞かせてもらいたいから、バスまで来てもらえるかな?」
「はい……」
「ユイ、歩ける?」
「うん、ありがと」
私たちが先生の後に続いて歩き出した。
——そのとき。
「日野原っ!!」
背後から響く声に、私はハッとして振り返った。
そこには、レンの姿があった。
必死に走ってきてくれたんだろう。
私の前に立っても、その荒い息遣いは収まらない。
「はぁっ……はぁっ……日野原……」
「……っ」
レンに伝えたいことが、たくさんある。
悪意ある言葉に必死に耐えたこと。
ボートを流されて怖かったこと。
先輩が助けに来てくれたこと。
……また、告白されたこと。
そして……。
理由はわからないけれど、私を見つめるレンの瞳に、悲しみと怯えの色が見える気がすること。
今、私が何かを言ったら、レンを困らせるんじゃないか。
こういうときこそ、明るく振舞わなくちゃいけないんじゃないかとか。
それらの想いが胸の中でごちゃごちゃに絡まって。
気持ちだけが先走って言葉が出てこない。
「んじゃー、先生は先に行ってるから日野原は後から来いな。不知火と水本は、とりあえず一緒に来い」
気を遣ってくれたのかな。
先生はそう言い残して歩き出す。
「それじゃ、ユイちゃんまたね。アイリちゃん、行こうか」
「は、はい。ユイ、先に行ってるね」
明るく言うショウ先輩と、一瞬だけ
二人は先生の後を追って、私とレンの横をすり抜けていく。
そのとき、レンの手が伸びて先輩の襟首をつかんだ。