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第27話『ココロノアリカ』

「日野原さん、ちょっと遠くまで行って反省しなよ」


 そう言い放つポニーテール。

 オールで押し出されたボートは、私を乗せて静かに水の上を滑りだす。


「船旅を楽しんで」


 悪意ある言葉に後押しされるように、ボートはどんどん流される。

 桟橋が小さくなっていく。


 戻らなきゃ!


 慌てて片方のオールを池に入れて漕ごうとするけれど。


 ——ぐらり!


「——きゃっ!」


 コントロールすることはできなくて。

 ただ単に船体を大きく揺らして、怖い想いをしただけになってしまった。

 このままだと他のボートにぶつかったり、池の真ん中で止まったり……。

 最悪、転覆する可能性だってある。


 ……くっ。


 でも、何もすることができなくて。

 私は下唇を噛んでうつむいた。


 両方の瞳に込み上げてくる涙。

 でも、今、それを流すことはできない。

 桟橋では、きっと三人組が見ている。

 嫉妬心からこんなことをした人たち。


 私は、涙をこらえて顔を上げる。

 ここで泣いたら、きっとあの人たちを喜ばせるだけ。

 だから、絶対に弱いところを見せるわけにはいかないっ!


 陸では、私のボートにオールが片方しかないことに気付いた人もいて。

 流されていることを知って、ざわめき立つ声が風に乗って聞こえてくる。


 ——そのとき。

 そのざわめきを割って、ひときわ響き渡る声があった。


「ユイちゃん!!」


 振り返ると、誰かが池に飛び込むのが見えた。

 こちらに向かって泳いでくる姿。

 それは、とても早くて。

 あっという間にボートの側面に辿り着くと、水面から顔を上げた。


「ユイちゃん!」

「……ショウ先輩」


 ——そう。

 それは、ショウ先輩だった。


「大丈夫!? 怪我はない?」


 髪から雫を垂らしながら先輩は言う。

 その顔はとても真剣で。

『5月の水はまだ冷たいからね』って、係のおじさんは言っていたのに。

 そんな素振そぶりを見せるどころか、口を開くなり私の心配をするなんて……。


「私は……大丈夫です」

「そっか、良かった」


 私の言葉に、先輩はようやく微笑んだ。


「せ、先輩こそ……制服なのに、そんなにびっしょりになって……」

「平気平気。俺さ、泳ぎも得意だから」


 私の言葉の意味を違えてとらえる先輩。

 これは、私に気を遣わせないための優しさなの?

 そう思った瞬間、もう何も言えなくなって。

 私はまた、うつむいた。


「ユイちゃん……何があったのか、聞いてもいい?」


 とがめるでもなく、興味本位でもなく、ただ心配してくれていることがわかる声色。

 ——でも。

 先輩が、あの三人組と繋がっているかもしれないと思うと、怖くて何も言えなくなる。


「心配しなくていいから」


 そんな私の心を見透かしたような言葉。

 先輩は、ときどきそういうことを言う……。


 私は、戸惑いながらもぽつりぽつりと話し出した。

 三人組のこと。

 先輩とのやり取りに嫉妬されたこと。

 ボートに乗っていたらオールを片方取り上げられたこと。

 そのまま押されて、私を乗せたボートが流されていたこと。


 話してるうちに涙が溢れてきて、私は咄嗟に先輩から顔をそむけた。

 先輩は、最後まで黙って話を聞いてくれた。


 私は手の甲で涙を拭くと、何事もなかったように向き直る。


「先輩は……なんでここまで来てくれたんですか?」

「ユイちゃんのことが、好きだから」


 予期せぬストレートな言葉。

 不意をつかれたこともあって、思わず胸が大きく脈打った。


「で、でも……私はもう、先輩のことは何とも思ってなくて……」

「知ってる」

「恋愛免許証だって返納しちゃったから、付き合うこともできなくて……」

「それも知ってる」

「じゃ、じゃあ、なんで……」

「それでも、俺の好きという気持ちは変わらないから」


 先輩は縁を伝って船尾へと移動する。


「このまま岸まで押すね。少し揺れると思うから気を付けて」


 そう言って先輩はボートを押して泳ぎ出す。

 新たな力を加えられたボートは、ゆっくりと岸に向かって動き出した。

 私は、ちらりと先輩を振り返る。


「……先輩。質問しても、いいですか?」

「うん、どうぞ」

「先輩は……なんでそんなに真っ直ぐでいられるんですか?」


 好きなものを好きだと言う。

 それはとても素敵なことだと思うけれど。

 でも、否定されたらと思うと怖くて仕方がない。

 例えば、先輩の言葉に対する今の私みたいに。


 少しだけ考える様子を見せた先輩は、私を見て優しく微笑んだ。


「それは、ユイちゃんのおかげかな」

「私の……?」

「俺さ、初めての彼女って中一の時で。そのときの相手は大学生で。その人には複数の彼氏がいてさ」


 無免許恋愛!

 歳の差!

 脇見恋愛!

 何気なく話しているけれど、それはかなり衝撃的な事実だ。


「その人は、いつも恋愛法なんて関係ない、私は自分の心に正直に生きるとか言っててさ。結局、人が人を好きになるなんて、そんなものなんだよな……と思ってたんだよね」


 先輩は懐かしそうにフフッと笑った。


「だから俺も、同じような恋愛をしてきた。その人と別れた後もずっと。不特定多数の相手と付き合う方が楽しいじゃんって。俺と付き合う人は、みんなそれでもいいって言ってくれてさ」


 そこまで言って、先輩は息を吐いた。


「でもさ……ユイちゃんだけは違ったんだ」

「わ、私は……」

「ユイちゃんはさ、こんな俺でも真っ直ぐに向き合ってくれて。恋免を返納しちゃうくらいに思い詰めてくれてさ」


 や……。

 そ、それは、感情のままにしてしまった行動なので、あまり褒められたことではないのですが……。


「俺、それを知って衝撃を受けてさ。そこまで俺のことを思ってくれていた人に、俺はなんてことをしていたんだろうって、とても後悔してさ……」

「先輩……」

「今頃それに気付いても遅いかもしれないけれど。周りから見たら独りよがりに見えるのかもしれないけれど。それでも俺は、ユイちゃんを諦められなくなってしまったんだ」


 自分自身の言葉に困ったように笑う先輩。


「ごめんね、ワガママで」


 そんな笑顔を見せられたら。

 そんなことを言われたら、もう何も言い返すことができなくて。


「先輩は……ずるいです」

「うん、ごめんね」

「……ずるい」

「ごめん」


 こんなにもストレートな愛を前に、私は戸惑い続けることしかできない。

 真っ直ぐな告白は、心の奥底を揺らした気がしたけれど。

 でも、今の私にはその想いに応えることはできない……。


 きっと先輩と付き合ってきた人たちも、みんな必死だったんだと思う。

 いつか先輩の一番になるんだって夢を見て。

 だから今は耐えるんだって、涙をこらえて前を向いていたんだと思う。


 それに気が付いてしまった今は、そこから目をそらすことなんかできなくて。

 私は、ただ黙ることしかできなかった。

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