その夜——。
何もない暗闇の空間に私は立っていた。
あれ?
おかしいな。
私は、確か部屋のベッドで寝ていたはずだけど……?
ふと気が付けば、目の前に一人、泣いている女の子がいる。
両手で目を押さえ、小さな体を震わせる少女。
迷子……かな?
私はしゃがむと、できるだけ優しい声で話しかけた。
「どうしたの?」
私の問いに、その子は静かに顔を上げた。
「猫のキーホルダー、無くしちゃったの……」
えっ!?
それって……小学6年生のときの私!?
……あぁそっか、これはきっと夢だ。
夢の中で夢だと気付く、
今、私は過去の出来事を追体験しているんだ。
じゃあ、この後は……。
「もう、泣くな!」
不意に背後からかけられる声。
振り返ると、そこには予想通り黒髪の少年が立っていた。
彼は
私のクラスメートでキーホルダーを拾ってくれた子。
そして、当時の私に謎の感情だけを残して消えた人だ。
今思えば、あれが初恋の始まりだったのだろうか……。
「ほら。手、出して」
レンの手から滑り落ちたキーホルダーが、小6の私の手の上で子気味良い音を立てる——。
——その瞬間、世界が光に包まれた。
先程の暗闇から打って変わっての眩しさに、思わず目がくらむ。
でも……それも時間と共にだんだんと落ち着いてきて。
ゆっくり
目の前にレンの顔があった。
「な、何!?」
「そこ、俺の席なんだけど」
「ええっ?」
思わず間の抜けた声が出る。
でも、それも仕方ないって。
だって、小学6年生だった二人はいつの間にか消えて。
今、私と近距離で向き合っているのは、昨日声をかけてきたクラスメートの彼なのだから!
背が高くて、クールな立ち振る舞い。
少し長めで軽く癖のある黒髪。
前髪もオシャレに決めていて、小学校のときのレンとはまるで別人。
激しくなる胸の鼓動は、まるで雷の音みたい。
うろたえる私に、彼の唇がゆっくりと近づいてくる。
「大丈夫……俺がユイを泣かせねーから……」
そして、二人の唇と唇が重なりあ――。
「——はわぁぁぁぁあ!!!!」
変な声と共に私は飛び起きた。
「うぅ、ヤバイ……変な夢を見てしまった……」
枕元に広がったままのファッション雑誌、今回の記事は春のリップ特集。
寝る前にこんなものを読んでいたからだろうか。
そのページに大きく書かれたキャッチコビーは……。
『——この唇で恋したい』
わ、私、もう恋なんてしないって言ったじゃんっっ!!
うーっ、それもこれもアイツのせいだーっ!
昨日、あの後のホームルームで自己紹介が行われた。
そのとき、
「
と確かに言っていた。
でもそれはとてもシンプルで。
顔色一つ変えない姿は、あのときキーホルダーを拾ってくれたレンとは似ても似つかない。
ただの同姓同名?
他人の空似?
私の頭の中は混乱しっぱなしで……。
だからきっと、こんな夢を見たんだっ!
くうぅ、私の心をかき乱す悪いやつ!
こっちは失恋したばかりなんだぞ、もうっ!
マンガでしか見たことないようなベタな夢。
この後、よくある展開では——。
「あー! もう、こんな時間じゃん! お母さん、何で起こしてくれなかったのっ!」
「お母さんは何度も起こしました。なのに、あなたが起きなかったんでしょ」
というのがお決まりのパターンだけれど……。
私は時計に目を向けた。
針は6時30分、いつも起きる時間より30分早い。
「ふふっ、私はそんなパターン通りにならない女~」
そう微笑みながら再びベッドに横になり、まどろみの二度寝の園へ……Zzz。
——それから1時間30分が過ぎて……。
現在、8時ちょうど。
「あー!! もう、こんな時間じゃん! お母さん、何で起こしてくれなかったのっ!」
「お母さんは何度も起こしました。なのに、あなたが起きなかったんでしょ」
お決まりのパターンを繰り広げている私がいた。
これが運命の強制力ってやつ!?
「ちょっとユイ、朝ご飯は?」
「購買で買って食べるからいい!」
そう言いながら通学カバンをつかむ。
あのキーホルダーが、シャラッと小気味よい音を立てた。
「行ってきまーすっ!」
靴を履きながら玄関の扉を勢いよく開く。
私を出迎えてくれる眩しい太陽と、ふわりと香る春の花の香り。
だけどね、今は
普段は20分ちょっとかけて歩く1.8キロの通学路。
だけど、今の時刻は8時15分。
始業は8時30分からだから、このままじゃ絶対に間に合わない。
でも、学校から2.5キロ圏内は自転車通学禁止。
バスに乗るにも普段は通学で使わないから、何時に来るのかわからない。
——というわけで、私が取った最善の行動は……。
「走るっ!」
走ればきっと間に合うはず!
だって、神様は頑張っている人を応援してくれるものだからっ!
とか、起きることを頑張らなかったことを棚に上げて神様に祈る。
まさに、困った時の神頼みだ。
両の脚に力を込めて大地を蹴る。
いつもの景色が勢いよく後ろに流れていく。
私は今、風と一つになってるっ!
……なーんていうのは、ものの数秒の出来事で。
走るのがそんなに得意じゃない私は、すぐにスタミナが切れてスピードダウンしていた。
「わ、私……将来はマラソン選手だけにはなれないわ……」
うつむきながらそう
そんな私を
軽やかで規則正しい足音が私を追い越して行く。
くうぅ、これは走ることを苦にしない人の走り方だっ!
「――あっ!」
思わず驚きの声が漏れた。
だって、それは
彼は長い足でどんどん加速していく。
走ることが苦にならないどころか、実は好きなんじゃないかって思うくらい、とても綺麗なフォームだった。
「ま、待って!」
思わず声をかけて、そしてハッと気付く。
私、別に用事なんてなくない!?
ごめん、今のやっぱ無し……。
「……なんだよ?」
だけど、時はすでに遅し。
レンは足を止めてこちらを振り返った。
ヤバい、ヤバい、ヤバい!
会話なんて用意してないっ!
どうしよう、どうしよう!?
頭の中が真っ白になって何も浮かんでこない。
そんな私をジッと見つめるレンの視線。
『大丈夫……俺がユイを泣かせねーから……』
はわっ!?
不意に今朝の夢——キスされそうになったあの夢が蘇って、瞬間的に顔が熱くなる。
ヤバい……。
今、私の顔は真っ赤かもしれない。
何か言わなきゃと思いつつ、更に何も言えなくなっている私にレンはため息をついた。
「あのさ、急がないと遅刻なんじゃねーの?」
「え…………あっ!」
「俺は走ればギリ間に合うけど」
「わ、私……間に合う自信ないっ!」
頭を抱えた私に、レンは再び大きなため息。
そして、くるりと私に背を向けた。
み、見捨てられたっ!?
確かに私の足に合わせてたら遅刻なんだろうけど……。
でも、せめて「頑張れよ」とか、一言あってもよくない?
それに、あのときのレンなら絶対にこんな態度は取らない。
やっぱり、コイツは同姓同名のそっくりさんだっ!
がるるる!
とその背中を睨んでいると、彼は肩越しに私に目を向けてきた。
不意に合う視線。
胸の鼓動が瞬間的に高鳴った。
「とにかく走るぞ! 日野原、カバンを貸せ! 俺が持つ」
そう言うなり私の手からカバンを掴み取ると、レンは再び走り出す。
「え……? あ……ちょ、ちょっと待って!」
予想外すぎるその行動に驚きながらも、慌ててその背中を追いかける。
通りを走る自動車、行き交う人々、小鳥のさえずり。
朝を
その中で、アスファルトを走る私たちの足音が。
そして、私の胸の鼓動が一際大きく響いていた気がした。