1
中年男性が背中を洗おうとしている。
豊かな腹部、貧しい毛髪。小さな背中を更に丸めて、黙々とボディタオルを泡立てている。寡黙なのは常であるが、平時であれば鼻唄のひとつくらいは嗜む。
「……………………」
つまり、とても機嫌が悪い。
執拗に泡立てたボディタオル。すわ背中を、というまさにその時。
「パパ……背中、流すよ」
まるで慰めるかのように。
優しげな声が、中年の背中に投げかけられた。
中年は、少し驚いたように顔を強張らせる。
「それ、よこしてよ」
言われて、中年はおずおずとボディタオルを差し出す。
「初めてだね。背中洗ってあげるのも…」
手渡されたボディタオルが、慈しむように中年の背中を撫でる。
「………………」
中年は頑なに黙したまま。
泡ごしに悲しそうな溜息が背中に当たった。
「分かるよ。パパが一生懸命育ててくれた、その娘がさ?どこの馬の骨とも知れない男を突然連れてきて、なんて。パパが怒っちゃうのも、ムリない、よね」
「……………」
「でもさ。男の事は信用できないかもしれないけど。娘の目は信じてやっても、いいんじゃないかな?」
「…………」
「認めてくれとは言えない。でも、ちょっと二人を、見守ってやって欲しいって、そう思う」
「………」
「不安だろうけどさ。ねぇパパ…」
「……」
「パパぁ…」
説得するような言葉に、ついに中年が、怯えた顔で振り向いた。
「せめて『お義父さん』じゃないかな?」
「んー?」
「君とはさ、初対面なんだし」
「んー…」
キッパリと言われ、どこぞの馬の骨は不思議そうな顔をした。
2
「ちょ、前は止せよ」
「照れんなよパパぁ」
「気色悪いんだよ」
「親子じゃんかぁ」
「いや認めねぇよ認めるくらいなら娘と縁切るよ縁を切るよ」
「寡黙って聞いてたけど、結構喋んじゃんヒュー!」
「だから股間触ってくんなよ。こういう場ではしゃぐんじゃないよ。分かるだろ、普通よぉ…」
戸惑うばかりの中年。頑ななのも、彼の心情を慮れば当然といえよう。
唐突に、娘が帰省した。
日焼けした、金髪の、チャラチャラした男と、手を繋いで。
茫然としているところに、挨拶されて。
唖然としたまま、夕食後。
にわかに娘が、ソワソワしだして。
そう、仕方のないことなのだ。
聞きたくなくて、慌てて『銭湯セット』を手に、家を飛び出した。
「どうしてついてきたんだよ?」
まさか、追ってくるとは。
「いやぁ、仲良くなれるかなって」
「無理だ。帰れ」
「ダメかなあ!」
「大声出すのは止しなさい。全く、迷惑を考えたまえよ君」
世間体も恐れもない。身体も態度もでかい。
小心者な自分とは全く似ていない、娘が選んだ男。
到底容認できない。納得もいかない。
「……話は、聞くから」
しかし今は、この場だけは、どうか放っておいて欲しい。
ここは中年にとって、聖域といえる場所なのだから。
「娘のどこが気に入ったんだ?」
「あーソレきーちゃう?」
人差し指で鼻を擦りながら、青年が少し照れ臭いような顔を作る。
「オレ何の才能もなくって、今まで誰かに認めて貰ったトキなかったんだけど……あの女だけが、オレを褒めてくれた…」
へへっ、と嬉しそうに微笑む青年。
「レタス千切るの、上手ねって」
「れた?」
「オレ舞い上がっちゃって、ソッコーでお袋に連絡入れて。今まで苦労かけて本音からソーリーって。オレ、これだったって…」
感無量といった顔で上を向く青年。対する中年は絶句している。
「ずっと惑星だったオレ。やっとみつけた、オレだけの小さな恒星に感謝。つまりリスペクト払う存在。だって望遠鏡、向けてくれた。オンリー、ユーイツあの女だけだった…」
「とりあえず娘を『あの女』っていうの止めてくれないかな?」
どうにも感性が違い過ぎる。
「身なりも言葉も酷すぎる。そーゆーの習わないのかな?君、勤めは?」
「ワントゥ……ワントゥッ!ガスメーターチェケッ!先月と違ぇっ!差し込むぜチケット!お空が近ぇつまり努力なしでテッペン!むしろ努めてみてぇ!」
腕を組み顎をくいっと上げた青年。
慄く中年。
「と、とにかく働いているんだね?ガスの……どこかで」
「ネバー!こればかりは!ロハでやらねばぁ!志で金!得たらもうそれ!So fallen!底に!そこはピュアじゃねぇ!」
「働いてないのか。え、何でガスメーター見て回ってるの?」
「志したから」
「なにを?」
「ガスメーターチェケッ」
「どうして?」
「志したから」
「だからなにを?」
「ガスメーターチェケッ」
「一体なんのチケットを差し込んでるんだ君は?」
「でもあの女だけはレタス千切るの上手いって言ってくれた!」
「あの女ってゆーなよぉ!」
父親だぞ!と、とうとう自分も大声を出してまう。
「無職に娘やらねぇの分かるだろ!繕えよ!」
「パパにウソ!つかないのが理想!」
「せめて専業主夫とか言えよ!」
「まだ包丁持っちゃダメ?二人のプロミスだね!」
「娘は君のママじゃないぞ!?」
「うん。ママっちゅーか、まぁまぁ、だね!」
「韻踏みたさに口が過ぎる!」
「でもレタス千切るの上手いって言ってくれた!」
「それ一本で押し通そうとするの止してくれないかな!?」
洗いたての薄ら髪をガシガシと掻き毟り怒声をあげる中年。
「君はよお!認めて貰いに来たんじゃないのかよお!?」
「ヤー」
頷くと、青年はズボンからカメラを取り出し、全裸の中年に向ける。
「ついでにお小遣いチョーダイ?」
気の抜けたシャッター音が、女子更衣室にこだました。
3
「なぁにしちゃってんのよー?」
勝ち誇ったようにニヤケ顔をつくる青年。
中年は、存外冷静に眼鏡をかけ、しかし決して青年には目を向けない。
「この高校は水泳部が強くてね。更衣室に洗面台がついているんだ」
「ほー」
「妻がここのOGで、ご恩返しと思い、ね」
「ほんで?」
「うむ…」
ロッカーから丁寧に畳んだ衣服を取り出す中年。
「最近不審者の噂があって、どうにも心配でね。自主的に見回りしている」
「そこの鏡覗いてみな。犯人映ってるよ」
そんなことを言われて、悲しげな表情で俯いてしまった。
「違うよ。ホラ、ここにくれば抜け毛がたくさん落っこちてるだろ?」
「ふん?」
「カツラをつくっていたんだ」
と、思ったがそうでもなかったようだ。
そして、更に中年を追い詰めるように、
『だれかいますかー』
女子更衣室のドアが、ノックされる。
だって、散々大声出しちゃっていたもの。
「警備員来ちゃったね、どーする?」
泰然としているあたり、青年は『捕まっても平気な人』なのだろう。
しかし対する中年も、力強く「大丈夫だ」と頷いた。
「抜け毛を拾い集めよう」
「は?」
「OGって事でどうだろう?幸い私の胸は豊かであるし」
全然ダイジョバない。
「おちつきなよ」
「私は冷静だ!窓から脱出するつもりだろう?」
「うん」
「私の足ではとても逃げ切れるものじゃないんだ。裸だし」
「そう」
「しかし、君が警備員を止めてくれればあるいは」
「はい」
「無職の君なら失うものもないだろう」
「ええ」
折り込み済、なのだろう。
なんならそのつもり、だったのだろう。
「……娘をやる」
「ボクちゃん会社がほちぃ」
「わ、分かった。畑も機械も全て差し出す」
悲痛な顔で頷く中年の言葉に、青年の頬が引き攣った。
「社長ってきいたけど?」
「ああ。代々イチゴを育てている」
「……………」
では頼むよ、と片手をあげて逃げようとする中年。
青年は、すばやく、中年の抱える衣服を奪い取った。
それから、足にしがみつこうとする中年を、手荒くスノコの上へ蹴倒した。窓までは、僅に五歩を数えるばかりである。青年は、奪った衣服をわきにかかえて、またたく間に窓の外へ脱出した。
しばらく、死んだように倒れていた中年が、裸の体を起したのは、それから間もなくの事である。中年はつぶやくような、うめくような声を立てながら、薄い月の光をたよりに、窓まで、這って行った。そうして、そこから、寂しい毛髪を躊躇いがちに、窓の外を覗きこんだ。外には、ただ、ようやく回り込んできた警備員が居るばかりである。
青年の行方は、誰も知らない。