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第6話 声が聞きたい

「……?」


 なんか……思っていた感触と、違う。


 何が起こっているのだろうと不安になり恐る恐る目を開けると、古湊さんが私の唇に人差し指をちょこんと乗せていた。


「やわらかあっ」


 そして興奮の声をあげる。


 彼女の熱を確かに感じ取れていたはず。

 キスをするのだと、本気で構えていたのに。


「指先でもこんなに柔らかいって感じるのに、唇つけたらどうなっちゃうんだろ」


 指を離した古湊さんは、ウキウキとはしゃいでいた。


 予想外の対応に呆然としてしまったけれど、古湊さんの頬が僅かに紅潮しているのを見て我に返る。

 その瞬間、頭のてっぺんから足の爪先までカーッと熱くなった。


 混乱と、戸惑いと、羞恥心と、高揚感と。

 いろんな感情がごちゃ混ぜになって、どうしたらいいのかわからず体を縮こめる。


 キスはしていない。

 でも、古湊さんの指が私の唇に触れた。

 その事実だけで、私の心臓がどうしようもないほど荒れ狂う。


「……こ、みなと……さん……なんで……」


 キスを期待していたのは、私だけだったのだろうか。

 本当は初めからするつもりなんかなくて、私に覚悟があるかどうかを試していただけだった?

 ……もしそうなら、恥ずかしい。


 おずおずと古湊さんを見上げると、彼女は柔らかな笑みを浮かべていた。

 私の縮こまる様子を笑うでもなく、真っ赤になっている姿をからかうでもなく、いつものように優しさに満ちた、穏やかな笑みを。


「日依、体がぷるぷるしてた。怖がってるのに一方的になんてできないでしょ」

「別に、怖がってないよ」

「無理しないの」

「受け入れる覚悟はある――」


 言葉を遮るように、頭をポンポンされる。

 その慈しむような手つきで、今古湊さんが私に抱いている感情がどういうものなのか、なんとなくわかったような気がした。


「気長に待ってる。日依の心だけじゃなくて、体の準備もできるまで。だから、少しも焦らなくていいからね」


 そう言って、古湊さんは私の頬をそっと撫でた。


 気を遣ってくれた――いや、遣わせてしまったんだ。


 待っていると言ってくれたけれど、その優しさにずっと甘えるわけにはいかない。

 自分の意思とは裏腹に体が緊張してしまう現象をどうにかしたいのに、どうすればいいのかわからず悶々とする。


 俯いていたら、古湊さんが再び腰を曲げて近づいてきた。

 私の右手を取り、自分の口元まで持っていく。


 突然の行動に理解が追いつかないまま成り行きを見守っていると、手の甲にふわふわとしたものが軽く触れた。


「今日はこれくらいにしとこっか」


 マシュマロのような感触と古湊さんの屈託のない笑顔に、体中の熱が一瞬にしてぶり返す。

 彼女が私の唇を触って興奮していた気持ちがわかった。


 確かに、とてつもなく柔らかい。


 そして気づく。

 今日の体育のあと、私の首筋に押し付けられたものは古湊さんの唇だったのだと。


 ……いい加減に心臓がもたなくなりそう。




 昨日の熱がまだ冷めない。

 時刻はもうすぐお昼時を迎えるというのに、だらしなくベッドに横たわっている。


 私の中で、規則正しい生活を送るべきだと忠告する天使と、休日だし別に大丈夫と唆す悪魔がせめぎ合った結果、大差で後者が勝利した。


 なかなか起き上がる気になれないのは、当然だと思う。

 原因は言わずもがな、昨日の出来事のせい。

 おそらく、古湊さんと付き合い始めてから今までの中で、一番ドキドキした日だった。


 もし昨日のような出来事がこれからも起これば、その度に私は彼女のことで心を患わなければならないのだろうか。


 それではいけない。

 キス……まではいかなくとも、ハグくらいはそろそろ慣れておかないと、彼女としての格好がつかない。


 思い立ったが吉日。

 早速ベッドから起き上がり、枕元に置いてあるスマホに手を伸ばす。


 ブラウザを起動し、検索バーに『スキンシップ 慣れる方法』と入力したところで、画面上部からメッセージの受信を知らせるバナーが表示された。


 ――古湊さんからだ。

 タイミングが良いのか悪いのか。


 正常だった心拍数が一瞬にして上昇する。

 一旦深呼吸してから、メッセージアプリを開いた。


『日依、今電話しても大丈夫?』


 電話の許可を取るために、律儀に連絡をしてくれたようだ。


 断る理由なんてもちろんない。

 それでもすぐに返信ができないのは、心の準備をしないと緊張して上手く文章が書けなくなってしまう私の臆病な性格のせい。


 けれど今回は、昨日の一件が尾を引いているのが一番の原因だ。


 いつまでも意識してしまう私とは違い、古湊さんにとっては気にするほどのことでもないんだろうな……。

 でなければ、気軽に電話しようだなんて思わない。

 そう考えると、私だけ悶々としているこの時間がもったいなく思えてきた。


『大丈夫』


 と送った瞬間に“既読”の文字がつく。

 その2秒後、古湊さんから着信が届いた。


 相変わらず反応が早すぎる。

 私は慌てて応答ボタンを押した。


「も、もしもし」

『ごめんね、急に。買い物してたら日依の声が聞きたくなって』

「買い物?」

『うん、ショッピング』


 電話の向こうにいる古湊さんの声は、心なしか生き生きとしている。


 買い物、ということは外出中だろうか。


 アウトドア派の彼女は、休日の過ごし方もアクティブだ。

 晴れの日は積極的に外へ出歩くし、雨の日でもお構いなし。


 今日は雲一つない快晴だから、おでかけ日和で機嫌が良くなっているのかな。

 声の調子だけで古湊さんが今どんな表情をしているのか、容易に想像できる。


『さて、いきなりですがここで問題です。来月にわたしたちの記念日があります。それは何でしょう』


 クイズ番組でよく見る出題者よろしく、得意げに問う彼女の口調で、何となくご機嫌な理由を察する。


 記念日、か――なるほど。

 いくら恋愛に疎い私でも、大切な日を忘れるほど無関心ではない。

 この問題はあまりにも簡単すぎた。


「付き合って半年になるね」

『そう! ハーフアニバーサリー!』


 一際大きな歓喜の声が上がる。


 来月――12月は、私と古湊さんが付き合い始めて半年になる月。


 ここまで長かった気もするし、あっという間だった気もする。

 半年も経つというのに、未だに古湊さんとのスキンシップがどうだの、心は受け入れているのになぜか体がどうだのと、付き合いたてのような悩みをいつまでも抱えていて、ほとほと呆れてしまう。


 ネガティブなことを考えていたらため息が出そうになって、咄嗟に口を押さえた。

 記念日の話題で嬉しそうにする彼女の前で、水を差すような行為は絶対にしたくない。


『しかもクリスマスの時期! 超ロマンチックじゃん』

「あ……そっか。来月クリスマスだ」

『今時クリスマス忘れる女子なんていないよ?』

「記念日は覚えてたんだけど……」

『じゃあいっか』


 呆気なく許してくれた。

 やっぱり、クリスマスよりも記念日の方が大事らしい。


『今、雑貨屋さんにいるんだけどね。日依にあげる半年記念のプレゼント選んでるとこなんだ。日依の声聞きながらだとインスピレーション湧いてくるかなーと思って』

「そう、なんだ。私の声だと、眠くなったりしない?」

『しないしない。ほわほわしてて、鈴の音みたいで可愛いから。逆に興奮して元気出ちゃう』


 それは褒め言葉、なのだろうか。


 自分の声と相手に聞こえる声は違うと言うけれど、私の声は小さくて届きにくい、ということだけは間違いないと思っている。

 それでも、“可愛い”と言われるだけで嬉しい気持ちの方が勝ってしまうから、私はとことん古湊さんに弱いんだ。


『あー、これとかいいかも。いや、これの方がいいか? んー、これも捨てがたい……』


 何か気に入った物を見つけるたびに実況や感想を話してくれるから、プレゼントのネタバレをされそうで正直ヒヤヒヤしていた。

 ただそれ以上に、楽しそうに選んでくれている古湊さんの声を聞くと私まで楽しくなって、一緒に買い物をしているような気分になれる。


 ほとんど彼女が一方的に話して、私はそれに相槌を打つだけだったけれど。

 小一時間、いろんな話題でおしゃべりをしたあと、古湊さんが「お会計しに行く」と言って通話は終わった。


『プレゼント買えた!! 今からお家帰るー』


 しばらくしないうちに、メッセージと共に満面の笑みで万歳をするクマのスタンプが送られてきた。

 クマのキャラクターが古湊さんの天真爛漫な雰囲気にどことなく似ていてほっこりする。


 私もスタンプを送ろうかと思ったけど、画面をタップする寸前で思い留まった。

 数分ほど考えて、メッセージを打つ。


『どんなもの買ったの?』


 教えるはずはないとわかっていながら、敢えて聞いた。

 少しでも長く、古湊さんとのやり取りを続けたくて。


 言葉では恥ずかしがって言えないことでも、文章でなら伝えられそうな気がする。


 慣れたい。

 恋人同士の会話も触れ合いも。

 緊張するばかりじゃない、胸の高鳴りもすべて受け入れて、彼女の隣に堂々といられるように。


 そう思いながら、次のメッセージが届くのを待ち続けて。


 その日、古湊さんから返信が来ることはなかった。

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