目次
ブックマーク
応援する
1
コメント
シェア
通報
4『ラ・イ・ト。それが私の名前です』

 職人たちもお弟子さん・お手伝いさんたちも、私が考案した簡易手話をあっという間に覚えてしまった。

 まるで渇いたスポンジのように、まるで喉を枯らした乳飲み子のように。

 みんな、コミュニケーションの手段に飢えていたのだろう。


 忙しく動き回りながら手話の指導をしていると、辺りが騒がしくなっていることに気づいた。

 人々が慌てふためいて、何かから逃げようとしている。

 いったい何が――――……ヒッ!?


 禍々しいオーラをまとったオオカミが、そこにいた。

 魔物だ!

 私は後ずさろうとして、無様にすっ転んでしまった。

 それを見て、魔物は私を標的に決めたようだった。

 ものすごい勢いで走ってくる!


「助けて!」


 誰の耳にも届くはずがないのに、私は叫んでいた。

 恐怖のあまり、目をつぶる。


 ――――――――。

 ――――。

 ――。


 だが、待てど暮らせど痛みは来ない。

 ……も、もしかして痛みを感じる間もなく死んじゃったの、私?

 ここ、もう死後の世界?


 恐る恐る目を開くと、


「サイレン様!?」


 そこには、

 首を落とされて絶命した魔物と、

 血まみれの剣をビッと振った、サイレンの姿が!


 倒したのか!

 そうか、そうだよ、相手は救国の英雄だった!

 英雄サイレン!

【勝ち鬨】サイレンだ!


「だ・い・じょ・う・ぶ・か?」


 剣を納めたサイレンが、こちらに手を差し伸べてくる。

 か、か、か、カッコイイ……!!


 彼は私の手を取って立たせると、そのままひょいっと私を抱き上げた。

 お姫様だっこだ。

 さらには、私を抱き上げたまま、器用にも馬に上がる。

 体幹どうなってんの!?


 私は、胸の高鳴りを抑えられなかった。





   ◇   ◆   ◇   ◆





 サイレンは、そのまま私を領都の屋敷まで連れ帰ってしまった。

 私に死なれたら、外交上困るから?

 それとも、手話の有用性を認めてくれたからだろうか。


 私はサイレンに抱き下ろされる。

 地に足をつけたとたん、その場に座り込んでしまった。

 脚が、全身が震えている。

 あの、魔物に襲われた瞬間のことを思い出したのだ。


 サイレンは、そんな私を抱き上げる。

 また、お姫様だっこだ。

 さすがに恥ずかしい。

 が、サイレンは下ろしてくれない。


 連れていかれたのは私たちの寝室だった。

 優しく、ベッドに寝かされる。

 そのまま部屋を出ていこうとしたサイレンの袖を、私はつかんだ。

 ……心細かったのだ。

 だって、死ぬところだったのだから。


「まっ・て」ゆっくりと、唇を動かす。「そ・ば・に・い・て。お・ね・が・い」


 サイレンは躊躇した様子だったが、やがてベッドに入ってきた。

 髪を、頬を撫でられる。

 私は目を閉じる。

 すると、頬に唇の感触を覚えた。

 私は驚いて目を開く。


『嫌か?』と、サイレンの顔に描いている。

 私は微笑む。

 そうして今度は、私の方からサイレンに口づけする。

 唇に、恐る恐る。

 それから二人、ついばむようなキスを繰り返す。


 サイレンが、服を脱いだ。

 覆いかぶさってくる。


 その日初めて、私は男性を知った。





   ◇   ◆   ◇   ◆





『お前は怖くないのか、この場所が?』


 事が終わった後、汗だくの彼が筆談でそう言った。

 私は呼吸するのもやっとの有様だったが、やがて、


『お前、ではありません』


 と筆談で返事をした。

 私は人差し指と中指を交差させ、


『ラ』


 小指を、指切りするみたいに伸ばして、


『イ』


 人差し指と中指を伸ばして、


『ト』


 同じ動作を素早く行い、


『ライト。それが私の名前です』


『指で文字を形作れるのか?』


 サイレンが、まるで子供のように目を輝かせている。

 手話に続いて指文字の存在を知り、その可能性に想いを馳せているのだろう。


『手話の後に、教えて差し上げます』


 サイレンが、コクコクと何度もうなずく。

 あはは、可愛いなぁ。


『怖いです。でも、ここでなら私は私らしく生きていけそうだから』


 実は、実家でも手話を広めようとしたことはあった。

 が、誰一人として私の話に――手話に耳を傾けてくれる人はいなかった。

 父も、母も、兄弟も、使用人たちですら。


 けれど、ここの人たちは違う。

 みんなきっと、コミュニケーションロスに苦しんでいる。

 素早く安価なコミュニケーション手段に飢えているはずだ。

 手話はきっと、絶対に受け入れてもらえる!


 サイレンが、力強くうなずいた。


『教会の礼拝堂を使って、手話学校を始める。ここの領主として、妻であり家臣でもあるライト・フォン・サイラスに命じる。手話の教師になれ。領民全員に初歩的な手話を覚えさせろ。優秀な者を選別し、手話の教師として育て上げろ』


「分・か・り・ま・し・た」


 私は身を起こし、ビシリと敬礼した。


 サイレンが、楽しげに笑った。

コメント(0)
この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?