職人たちもお弟子さん・お手伝いさんたちも、私が考案した簡易手話をあっという間に覚えてしまった。
まるで渇いたスポンジのように、まるで喉を枯らした乳飲み子のように。
みんな、コミュニケーションの手段に飢えていたのだろう。
忙しく動き回りながら手話の指導をしていると、辺りが騒がしくなっていることに気づいた。
人々が慌てふためいて、何かから逃げようとしている。
いったい何が――――……ヒッ!?
禍々しいオーラをまとったオオカミが、そこにいた。
魔物だ!
私は後ずさろうとして、無様にすっ転んでしまった。
それを見て、魔物は私を標的に決めたようだった。
ものすごい勢いで走ってくる!
「助けて!」
誰の耳にも届くはずがないのに、私は叫んでいた。
恐怖のあまり、目をつぶる。
――――――――。
――――。
――。
だが、待てど暮らせど痛みは来ない。
……も、もしかして痛みを感じる間もなく死んじゃったの、私?
ここ、もう死後の世界?
恐る恐る目を開くと、
「サイレン様!?」
そこには、
首を落とされて絶命した魔物と、
血まみれの剣をビッと振った、サイレンの姿が!
倒したのか!
そうか、そうだよ、相手は救国の英雄だった!
英雄サイレン!
【勝ち鬨】サイレンだ!
「だ・い・じょ・う・ぶ・か?」
剣を納めたサイレンが、こちらに手を差し伸べてくる。
か、か、か、カッコイイ……!!
彼は私の手を取って立たせると、そのままひょいっと私を抱き上げた。
お姫様だっこだ。
さらには、私を抱き上げたまま、器用にも馬に上がる。
体幹どうなってんの!?
私は、胸の高鳴りを抑えられなかった。
◇ ◆ ◇ ◆
サイレンは、そのまま私を領都の屋敷まで連れ帰ってしまった。
私に死なれたら、外交上困るから?
それとも、手話の有用性を認めてくれたからだろうか。
私はサイレンに抱き下ろされる。
地に足をつけたとたん、その場に座り込んでしまった。
脚が、全身が震えている。
あの、魔物に襲われた瞬間のことを思い出したのだ。
サイレンは、そんな私を抱き上げる。
また、お姫様だっこだ。
さすがに恥ずかしい。
が、サイレンは下ろしてくれない。
連れていかれたのは私たちの寝室だった。
優しく、ベッドに寝かされる。
そのまま部屋を出ていこうとしたサイレンの袖を、私はつかんだ。
……心細かったのだ。
だって、死ぬところだったのだから。
「まっ・て」ゆっくりと、唇を動かす。「そ・ば・に・い・て。お・ね・が・い」
サイレンは躊躇した様子だったが、やがてベッドに入ってきた。
髪を、頬を撫でられる。
私は目を閉じる。
すると、頬に唇の感触を覚えた。
私は驚いて目を開く。
『嫌か?』と、サイレンの顔に描いている。
私は微笑む。
そうして今度は、私の方からサイレンに口づけする。
唇に、恐る恐る。
それから二人、ついばむようなキスを繰り返す。
サイレンが、服を脱いだ。
覆いかぶさってくる。
その日初めて、私は男性を知った。
◇ ◆ ◇ ◆
『お前は怖くないのか、この場所が?』
事が終わった後、汗だくの彼が筆談でそう言った。
私は呼吸するのもやっとの有様だったが、やがて、
『お前、ではありません』
と筆談で返事をした。
私は人差し指と中指を交差させ、
『ラ』
小指を、指切りするみたいに伸ばして、
『イ』
人差し指と中指を伸ばして、
『ト』
同じ動作を素早く行い、
『ライト。それが私の名前です』
『指で文字を形作れるのか?』
サイレンが、まるで子供のように目を輝かせている。
手話に続いて指文字の存在を知り、その可能性に想いを馳せているのだろう。
『手話の後に、教えて差し上げます』
サイレンが、コクコクと何度もうなずく。
あはは、可愛いなぁ。
『怖いです。でも、ここでなら私は私らしく生きていけそうだから』
実は、実家でも手話を広めようとしたことはあった。
が、誰一人として私の話に――手話に耳を傾けてくれる人はいなかった。
父も、母も、兄弟も、使用人たちですら。
けれど、ここの人たちは違う。
みんなきっと、コミュニケーションロスに苦しんでいる。
素早く安価なコミュニケーション手段に飢えているはずだ。
手話はきっと、絶対に受け入れてもらえる!
サイレンが、力強くうなずいた。
『教会の礼拝堂を使って、手話学校を始める。ここの領主として、妻であり家臣でもあるライト・フォン・サイラスに命じる。手話の教師になれ。領民全員に初歩的な手話を覚えさせろ。優秀な者を選別し、手話の教師として育て上げろ』
「分・か・り・ま・し・た」
私は身を起こし、ビシリと敬礼した。
サイレンが、楽しげに笑った。