目次
ブックマーク
応援する
2
コメント
シェア
通報

第52話 オリンピック選手

「お疲れ、今日も小仏選手のジムに行くの?」

「うん。毎週金曜は出稽古だよ。……はぁ、いっつもボコボコにやられるんだよね。今から憂鬱だよ」


大学での昼休み、いつものようにすずと食堂での一時である。


俺のプロ初戦から大体1ヶ月ほどが経過した。

試合後2週間ほどは練習もせず休養した。減量で絞った身体もすぐに10キロ近く戻ってしまった。流石に試合当日は興奮で眠れず、次の日には満身創痍でほぼ動けなかった。だがその次の日には大学に通って普通に授業を受けていた。まあ正直授業で何をやっていたかはほぼ覚えていないが、お気楽な大学生ゆえの平和な日常とお許しいただきたい。


それから徐々に練習を再開し、週に一回師範のすすめもあり小仏選手のジムに出稽古に行かせてもらうことになった。

それと共にに頼んで小仏選手の持っていた『柔術仙人』のスキルをパクらせて……もとい、継承させてもらうことにも成功した。


だが『柔術仙人』のスキルは身に付いてもそれだけで「寝技最強!」とはならないのが、面倒くさい所というか、MMAの奥深さというか……。

たしかにスキルを獲得した瞬間に一気に寝技の感覚が開けてゆくのを感じた。フィニッシュに持ってゆくまでの手順が一瞬で閃くような感覚である。

柔術というのはかなり理詰めの競技で、将棋やチェスと例えられることもあるほどだ。先の先を読み、最終的に相手を詰ませてタップさせる状態を想定し、そこから逆算して動いてゆく……そんな感覚だ。

だが『柔術仙人』のスキルは継承したが、それを完全に俺の身体に馴染ませるにはまだまだ練習が必要のようだ。小仏選手と俺とでは骨格も身体能力も異なっており、結局のところ俺は俺の寝技を突き詰めてゆくしかないということらしい。道着を着ての柔術とノーギ(道着を着用しない)のMMAとの違いも大きい。

そのために小仏選手の道場に週一回通い地味な基礎錬から教え直してもらっている。打撃はある程度センスによって得意・不得意が分かれるが、寝技にはそれがないと言われる。ひたすら地道な練習を繰り返してゆくしかないのだそうだ。


MMAの試合では俺が勝利したが、柔術やグラップリングでは小仏選手にはまるで勝てる気がしない。毎週練習でスパーリングをすると、それくらいレベルの差を感じさせられる。

現在の小仏選手自身は柔術の道に傾倒しており、MMAの試合に今後出るかはわからない……ということだ。


だがともかく今までは「寝技は凌いで打撃で勝負」ということしか考えていなかった俺が、自分から組んで仕掛けてゆく選択肢を持てるようになったのは大きい。

もちろん個別の柔術やグラップリングの練習では自分から技を仕掛けて一本を取ることもやっていたのだが、いざ試合や本番に近いMMAスパーになると、相手の寝技を凌いで打撃やパウンドで勝つことを想定した動きばかりになっていた。

MMAは選択肢を多く持てる方が有利に決まっているのだ……ということを練習を通じて感じている最中だった。




「そういえばオリンピックは観てた?」

「あ~、オリンピック? いや、全然……」


の言葉で、そう言えばちょうど今どこかの国でオリンピックが開催されている……とニュースでやっていたことを思い出した。


「ま、保君も試合だったからね……なんかね、レスリングの選手が話題になってるのよ」


すずが自分のスマホを俺に見せてきた。


宮地大地みやちだいち? へー、金メダル取ったんだ……って18歳! ボクらと同じ歳か!」


画面には短髪で首が太くいかにも負けん気の強そうな少年の顔が出てきた。記事の見出しは『宮地大地18歳! フリースタイル59キロ級、初出場で金メダルの快挙!』となっており、決勝戦の模様が1分ほどのハイライト動画にまとめられて見られるようになっていた。


「……速っ! ってかあんな体勢から回避できるんだ!」


もちろんレスリングもMMAでは重要な要素だから、どうしてもそうした分析的な目で見てしまう。自分とは比較にならないスピードと身体能力だ、ということがスマホの動画からですら見て取れた。


「まあ、ホントのエリートだよね。金メダル取るような人間なんて……」


俺ももっと早く格闘技を始めていれば良かった、と思う時がある。

「お前は高1からMMAを始めたのだから、早く始められた方だろうが! 大人になってからジムに通い始める人も多いんだぞ!」と俺に対して言う人もいるかもしれない。それはそれで一理あるのだが、やはりトップクラスに到達する選手は何らかのバックボーンとなる競技を幼少期からやっている選手がほとんどなのだ、とことあるごとに思う。

世界最高峰の舞台『WFC』でもトップ選手は皆そうだ。格闘技は不良のやるものなんていう発想がもう古くて、本当に上にいけるのは幼少期から環境に恵まれており、その上で素質を備えていたほんの一部のエリートだけ……という残酷な図式になりつつあるのが現代MMAの状況だ。


「あ、でもなんかこの宮地っていう選手、結構問題児なんだって。高1の時に一回飲酒がバレて謹慎してるんだって。その他にもケンカして上級生を辞めさせた、っていう噂もあるし。……まあでも金メダル取っちゃえば、そんなこと霞むわよね」


「なんだそれ。そんなヤツが金メダル取れちゃうのかよ! ……まあ、勝てば官軍か。ってかひたすら真面目に練習してれば必ずしも強くなれるってわけでものは残酷だよな……あ、どっかでレスリングを教えてもらえないかな? ってそんな金メダリストみたいな大スターと接点ができるわけもないか……」


この宮地大地という名前を俺はすぐに忘れると思っていた。

もちろん同じ歳の金メダリストというのは凄い存在だが、所詮は住む世界の違う人間だ。たまたますずが暇潰しの雑談としてニュースになっていた話題を出しただけで、今後その名前を聞くこともないだろう……その程度の認識だった。

だが俺はその宮地大地という名前を生涯忘れることはなかった。彼が俺の最大のライバルとも言える存在になったからだ。


金メダルを獲得した宮地大地は、オリンピックから帰国した直後、突如としてMMAへの転向を表明したからだ。




この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?