「ふんふ、ふんふふん……♪♪」
「なんじゃ小娘、えらく上機嫌ではないか」
私は森田すず。ここ影山市桃林区で父の森田紋次郎とともに『FIGHTNG KITTEN』というジムをやっている。そして我が家では代々併設する花田神社の管理も任されている。
私の鼻歌に反応し足元にすり寄ってきたこの黒いモフモフちゃんは、実はただの猫ではない。
700年ほどは生きているというこの花田神社の氏神様なのだ。少し小っちゃいだけで見た目は普通の猫となんら変わらないけれど。
「なんだ、やまと。聞こえてたの?」
5月のうららかな陽気。それに一昨日はウチのジムの初めてのプロ選手である保君が、プロデビュー戦で見事勝利を収めたのだ。こんな日に上機嫌にならないわけがない。
洗濯ものをたたむのを少し止めて、やまとのツヤツヤの黒毛を撫でてモフモフを堪能させてもらうことにする。
すぐにやまとの喉からゴロゴロという音が鳴り始め、やまとは気持ち良さそうに目を閉じた。
「……小娘、だいぶ上手くはなったがのう、やはりお前が懸想しておるあの保とかいう少年の方がワシを撫でるのは上手いぞ、くく」
「……何言ってんのよ、猫のくせに」
いくらやまとが氏神様とはいえ、猫に
「馬鹿者、何をするか。我が主に対して無礼であろうが!」
にゃっ! と声を上げてやまとは私の指を甘噛みし始めた。
まあたまにはこんな平穏な時間も良いだろう。
「こんにちは~」「今日もウチの子をよろしくお願いします~」「保君の試合どうだったんですか~?」
保君の試合があったのがおとといの土曜日。その関係もあって昨日はジムを完全に閉めて休館日とした。
今日は月曜日だから、夕方になるとキッズクラスの子どもたちとそれを送ってくるお母さんたちが来館し始める。
「は~い、今日もみんな元気にがんばってね」
キッズクラスに来るのは近所の小学生たちだ。多い時は20人近くが参加する。
当然これくらいの子供たちにそこまで本格的な格闘技の練習をさせるわけではない。柔術やレスリング、ミット打ちなどもするが大人のクラスに比べれば安全には一層注意を払う。どちらかというとマット運動や体操の延長に近いだろうか。
月曜日は大学の講義が早く終わるので、こうして受付やジムの雑事をするのが私の日課になっていた。
もちろん私の本業は大学生だから「そういうことは自分がやるからすずはやらなくても良い。必要ならバイトの人を頼むし」と父の紋次郎は言ってくれたのだが、私はジムで色々な人と接しながら観察するのが単純に好きなのだ。
「あ、すず! ストップウォッチが見当たらないんだけどな……どこにあるか知らないか!?」
もうすぐクラスも開始するという時になって、父が慌てて私のもとにやってきた。
「はあ? 私は使わないんだから知るわけないでしょ? 大事なものなんだから自分で管理しときなさいよ。ちゃんといつも同じ場所に置くように習慣付けるとかさ……」
「わかった、わかった! 気を付けるから! ……まったく
父は私の剣幕に驚いたのか逃げるように行ってしまった。無事にストップウォッチを見つけることができてクラス中に使えたのかは定かではない。
「うぃ~す、お疲れ、すずちゃん」
キッズクラスが18時に終わり、19時からは大人を対象にした一般クラスが始まる。
いつも出席率の高いキッズクラスと違い、こちらは日によってまちまちだ。特に平日の参加者は10人を下回ることもちょくちょくある。
「お疲れ様です、平本さん。早いですね」
今日の一番乗りは平本さんだった。
声も大きくて、若い時やんちゃだった香りを大人になっても残しているこの人が昔は苦手だったのだが、最近はあまり気にならなくなった。というか正直だいぶ好意的に見られるようになってきた。
平本さんは40代半ばくらいだっただろうか? ……それくらいの歳になっても真面目にこうしてジムに通い続けられるというのは誰もができることではない。この人にはこの人なりの真面目さとプライドがあって、自分と戦っているのだ……ということに私が気付けたのはここ2~3年のことだったと思う。
「保センセイは今日来るの?」
「いえ、流石に今日は休みですよ。大学には来てましたけどね」
私は苦笑しながら答える。最近の平本さんは口を開くと二言目には保センセイ、保センセイと言っているような気がしたからだ。
平本さんは保君がジムに入った当初、まだ高1の時から彼を見ている。頼りないひょろっとした子供だった彼がプロMMA選手になる過程をずっと見てきたのだ。色々と思う所はあるのだろう。
「すずちゃんってさぁ……ずいぶん柔らかくなったよね、雰囲気が。大学でモテるでしょ?」
「……は? なんですか? セクハラですか? ウチのジムではセクハラに該当する行為をとった会員さんには即刻退会していただくことになってるんですけど?」
ジトりと私が見つめると平本さんは慌てて手を振った。
「や、全然そういうんじゃなくってさ! マジで! 一会員としてもすずちゃんの笑顔が最近見られてジムに通い甲斐があるなってこと! マジで!」
「はいはい、なによりです」
「いやぁ、疲れた疲れた! ……すずも先に休んでて良いんだぞ?」
今日は一般クラスもずいぶんと賑わっていた。やはり保君の勝利の報せを聞いて会員さんたちもそれぞれにモチベーションが高まっていたのだろう。
我が父親紋次郎は21時でクラス指導を終えたが、その後も会員さんの個人的な練習に付き合い、結局閉館時間の22:30まで細々と動いていた。
私も会員さんの対応や雑事を終わってからもジムで皆が汗を流しているのを見ていた。やはりこの場所が理屈抜きに私は好きなのだと思う。
「ね、もうすぐだね……」
最後の掃除を手伝いながら父にそう声を掛けた。
「……そうだな、もう6月だもんな……」
主語を言わなくとも流石に伝わる。もう18年も紋次郎とは親子をやっているのだから、というよりも私たちにとってはこの上なく大事なことだからだ。私の母親である
元々は母がこの花田神社の巫女であり、母方の家系が代々それを受け継いできた。「対象者の強さを数値化できる」という私の特殊能力も、巫女の血がそうさせるようだ。
そして父紋次郎は若かりし頃に母に一目惚れし、猛アタックの末に婿入りした。母が結婚するのに出した条件が婿を取りこの家を継ぐことだったそうだ。
「ま、色々あるけどな……何よりすずがこうして立派に育ってくれてお父さんは一番嬉しいよ。雅も今のすずを見て喜んでくれているぞ、間違いない」
「……うん、そうだね」
母は私が7歳の頃病気で他界してしまった。
母は気が強くてハキハキとした社交的な人物で、家ではどちらかというと父親の方が押されているような印象が強い。
「なあ、すず……。お前本当にこのジムを継ぐつもりなのか? 他にもっと色々な選択肢があるんだぞ? 幼い頃からこの環境にいるのがお前には日常だったからな……最終的にジムを継ぐにしても、もっと色々な世界を見てからでも良いんだぞ?」
「うん、わかってるよ。……でも今は他に特に興味のあることもないし、私はこうやって色々な人が集まって汗を流して、自分の可能性を信じてがんばっている人を見るのがとても幸せなんだよ」
「そうか。まあ、それは何よりだな」
以前はそんな風に思ったことはなかった。日常生活には何の役にも立たない格闘技なんかに情熱を傾けている人たちのことがまるで理解できなかった。
でも……私のそんな心境を変えたのはやっぱり保君だったと思う。
ヤンキーたちにイジメられていた彼が奮起して変貌し、やがてはプロのMMA選手にまでなったのだ。
その心の強さは並大抵のものではない。……ことを私は知っている。誰よりも近くで変わってゆくその様を見てきたのだから。
これからも、ずっと……もし許されるのならば彼の一番近くで、彼の変わり続ける様を見ていたい。
それが私の願いだった。