カンカンカンカン!!!
第3ラウンドが終了したが俺も小仏選手もリングの上に立ち続けていた。結局決着は付かず、勝敗は3人の審判の手に委ねることとなった。
「……おっしゃ、おっしゃ……」
後で振り返れば意味不明だが、まだ判定の結果が出る前から俺はそんなうわ言を繰り返しながら、両手を挙げてリング上をグルグル回っていたらしい。
判定の結果はどうであれこのデビュー戦を最後まで戦い抜いた……というだけで誇らしい気持ちと安堵が入り混じったがゆえにそんな行動をしていたのだろう。
「両選手、中央へ!」
いよいよ判定の結果が出た。リング中央でレフェリーを真ん中に俺と小仏選手が並んで立つ。
判定は会場全体に伝わるようにリング上のレフェリーではなく、別の審判がマイクを使って告げることになっていた。
「ジャッジ松室! 赤、小仏!」
(……マジか! もうダメか?)
判定は3人のジャッジによって決められることとなっていた。1人目が小仏選手に入れたということは、まあ普通に考えて小仏選手に勝利がもたらされる可能性が高い。
「ジャッジ辻! 青、田村!」
だが2人目のジャッジは俺に付けた。その瞬間会場からも
判定になってもジャッジの意見が分かれるということは比較的少なく、この試合がそれだけ拮抗していたことを表している。
「ジャッジ藤間……」
(頼む! 神様! ……あ、
最後のジャッジを溜めるのは世界共通の仕草だろう。
その静寂の間に、今まで一度も祈ったことなんかないのに思わず神様に祈っていた。
「青、田村!!!」
(……勝った?)
レフェリーが俺の左手を高く掲げていた。
「田村君おめでとう。良いデビュー戦だったよ……」
肩を叩き、真っ先に祝福してくれたのは対戦相手の小仏選手だった。
「……ありがとうございます! いや、もう途中勝てないと思いましたよ……」
「本当に? 全然そんな感じしなかったけどな!」
「ホントですよ! ……あ、すいませんまた後で!」
試合を終えた達成感と興奮で小仏選手と話したいことは幾らでも溢れてきそうだったが、次の試合もあるのでリング上にいつまでも残っているわけにはいかない。
共に戦ってきた師範と喜びを分かち合い、相手セコンド陣に軽く挨拶を済ませると、早々にリングを後にした。
「おめでとう、保君……」
控室に戻るまでの廊下を歩いている最中、師範が改めて声を掛けてきた。
普段は温厚で感情的な場面を見たことのない師範の声が震えていた。少し驚いて振り返ると師範の目には光るものがあった。
「……ありがとうございます、師範! 師範の下でやってこれてボクは幸せです。これからもよろしくお願いしますね……」
俺は足を止めて最敬礼をした。
森田紋次郎という人と出会っていなければMMAを始めることはなかった。
普通に勉強して普通の大学生になっていればマシな方で、もしかしたらあのまま吉田たちにイジメられて学校を辞めていたかもしれない。
それがMMAによって色々な人と出会い、こうしてプロとなり勝利を収めるまでに至ったのだ。すべてはこの人のおかげだ。どれだけ感謝しても感謝しきれない。
「いや、こちらこそありがとうだよ、保君。今までよく頑張ってきてくれた……。おじさんは自分の夢を勝手に保君に重ね合わせているところがある。……野島君のこともあって『自分はプロ選手を育てるなんてことは無理なんじゃないか?』っておじさんはずっと思っていたんだ。それを保君が立派にひっくり返してくれた。本当にありがとう……」
「師範……」
俺も感情的になることの少ない人間だが、こうも正面から熱い気持ちを聞かされると流石にグッとくる。
「おめでと~! ……って何で2人抱き合ってんの!?」
控室に
「いや、保君の戦いっぷりを見ていたら、ついな……」
「……まあ、なんか気持ちはわかるけどさ……でもホントお客さんたちもみんな立ち上がって拍手して、保君の試合を面白がっているのが伝わってきたわよ! 客観的に見て前半の試合の中ではベストバウトだったんじゃないかしら?」
この日の興行は10試合ほどが行われるのだが、俺と小仏選手の試合は3試合目に組まれていた。
明確な基準あるわけではないが、基本的には後半の方が注目度の高い試合で、最後にその日のメインカードが組まれるのが一般的だ。
「それは良かった。ともかく今日勝ったんだし、また次の試合ではお客さんの注目を集めることになるぞ!」
「SNSでもちょっと今日の興行について検索してみたら、保君のことを呟いている感想も結構見つけたわよ! 大人しそうな雰囲気から激しい打ち合い、っていう保君のギャップに驚いているお客さんが多かったみたい」
すずの言葉に俺も不思議な気分だった。自分がSNSで感想を呟かれるような立場の人間になったのだ……という実感がなかったからだ。
まあともかくお客さんに認知されるというのは重要なことだ。強さも大事だが、プロである以上客を呼べるというのも立派な価値の一つだ。
『元・いじめられっ子』というキャラ付けが成功したという意味では、笹塚CEOの狙い通りだ。笹塚さんは俺に対してさして興味もなさそうだったが、あの人はやり手なのだろう。
「……ちょっと良いですか?」
振り向くと、そこには小仏選手が立っていた。
「すいません、お疲れ様です! ありがとうございました!」
慌てて俺は駆け寄り小仏選手と再び握手をかわす。
特に決まりがあるわけではないが、何となく試合後の挨拶は勝った者の方から出向く……という傾向があるらしい。負けた者の方からは心理的に出向きにくい、というのはたしかにあるだろう。
ましてや小仏選手の方が年齢的にも大先輩なわけで、師範との感動の共有よりも先に小仏選手への挨拶に出向くべきだったかもしれない。
「小仏君、本当にありがとうね。保君にとっても良い経験になった……」
師範もすぐに小仏選手の下に駆け寄った。
「……いやぁ、年甲斐もなく調子に乗って打ち合ってしまったよ! 田村君に誘われて熱くなってしまった俺のミスだったね!」
小仏選手は試合中とは打って変わってガハハと笑った。
目尻に辺りには絆創膏が貼られていた。俺のパンチによってカットしたのだろう。もちろん俺だって顔は腫れているし腕も脚も満身創痍だ。
「いや、マジで2ラウンド極められたと思いましたよ! 小仏選手の寝技を凌げたのは運が良かっただけです」
俺も正直な心境を伝える。大仕事が終わったような安堵の気持ちを小仏選手も抱いているのが伝わってくる
「いやいや、寝技にまぐれなんかないから。組手もちゃんとしてたし、森田紋次郎センセイの教えの賜物だよ。……でもなぁ」
小仏選手が少し言葉を詰まらせた。
「何ですか? 何でも言って下さい」
プロ初勝利で浮かれてしまわないように、むしろ今は俺への苦言・改善点を教えて欲しかった。対戦した選手から直接聞けるのならこんなに貴重な機会はない。
「そうだね……田村君はバリバリのストライカー(打撃主体の選手)だよね。それも完全に攻撃型で自分から仕掛けていくタイプだ。それはもちろんそれぞれのスタイルがあるから良いんだが、組みに関しては完全に付き合わないつもりだよね?」
「……そうですね。テイクダウンは完全に切る。寝かされたら何とか凌いで立つ……この試合に関してはそれしか考えてなかったですね、正直」
もちろんプロともなれば3ラウンドを経なくとも、数分で俺がどんなスタイルの選手なのかはすぐに暴かれてしまうだろう。
「だよね。やっぱりそれって相手からしたらちょっと安心できる部分なんだよね。スタンドでは打撃さえ注意しておけば良い。向こうからテイクダウンを仕掛けてくることはない……ってほぼ確定しているっていうのは、相手からしたら正直かなり楽なんだよ」
「なるほど……そうですよね……」
小仏選手の言っている意味は痛いほどよくわかる。
試合前に俺と師範が、小仏選手をやりやすい相手と踏んだのと同程度には、小仏選手側も俺を事前にそう分析していたのかもしれない。
俺は自分の得意な打撃でガンガン攻めてゆこうということしか考えていなかった。一方、寝技しかないと思っていた小仏選手の予想外の打撃によって、かなりペースを握られた。
「……って、部外者の俺が田村君のスタイルまでどうこう言うのは差し出がましい話なんだけどさ! 田村君若いんだし才能あると思って、ついね……。じゃあ今日はホントありがとう、これからも頑張っていってね」
「小仏君!」
控室を後にしようとした小仏選手を引き留めたのは師範だった。
「あのさ……良かったら保君に柔術を教えてやってくれないか?」
予想もしていなかったのだろう。師範の言葉に小仏選手は少しドギマギした表情を見せた。
「え、そりゃあ、自分に教えられることなら構いませんけど……紋次郎さんこそ良いんですか、自分の大事な弟子が他所者に技術を教えられるなんて?」
「いやぜひともお願いするよ。……保君が今のスタイルになったのはもちろん本人の素質もあるが、私自身が伝統派空手の出身だったことも間違いなくある。自分も試合では完全にそういったスタイルだったからね。……寝技の練習も充分積んでいるつもりではあったけれど、やっぱり師匠が私1人では本当の完成されたMMAファイターには程遠いんだと思う。師匠は何人居ても良い。……どうだい保君?」
「それはもう……小仏選手が良かったらぜひお願いしたいです」
師範から言われなくとも、むしろ俺の方から言おうかと思っていたくらいだ。小仏選手の柔術を少しでも学べるのなら、それに越したことはない。
「……はは、オッケーわかったよ。こんどウチの道場にも出稽古に来ると良い。最初に言っとくけどウチの練習は地味でキツイよ? 付いて来れるかな?」
「大丈夫です! やりますとも!」
こうして俺のプロデビュー戦は苦しみながらも判定勝利を収め、さらに対戦相手だった小仏選手から指導してもらう約束を取り付けたという収穫までも収めたのだった。