「よく耐えたぞ、保君! 対応の仕方もよく覚えていたな!」
完全に劣勢だった2ラウンドと言って良い。判定のポイントでいえばこのラウンドは完全に失ったはずだ。それでも師範は俺を鼓舞するように励まして迎えてくれた。
時間があと30秒も残っていればあのまま極められていた可能性が高い。小仏選手の仕掛けてくる目まぐるしい寝技の展開に俺はかなり力を使っていた。かなり限界が近かったというのが正直なところだ。
力を使う……色々な意味を込められて使われるこの言葉だが、MMAでは筋力という意味合いも大きい。特に寝技・組技の攻防では押したり、引っ張ったりという攻防で筋力を使い続けている。当然人間の筋持久力というのは限界があるから、ここぞという時のためには筋力を温存しておくべきだ。
そういう意味でも何とかギリギリでしのぎ切った2ラウンド目ということになる。
しかし……
「ちょっと、膝も肘も痛めたかもしれません……」
ヒールフックを食らった時、腕ひしぎを掛けられた時……どちらもかなり深く極まっていたということだ。攻防の中では夢中でアドレナリンも出ていたため痛いとは思わなかったが、インターバルになるとズキズキと痛み始めた。
「大丈夫か? ムリだけはするなよ、関節のケガは長くかかる可能性も……」
「大丈夫です。やります!」
師範の心配はもっともだがこれは愚問だった。ここで棄権するなら何のために2ラウンドを凌いだのかわからなくなる。
それに俺はもっともっと小仏選手と戦っていたかった。試合でしか味わえない真剣勝負の緊張感、そしてプロらしい気迫と多彩な技術……初めての経験に小仏選手の真髄に触れられている気がして、劣勢の中でも俺の心は踊っていたのだ。
「……わかった。でも無理だと判断したらタオルは投げるぞ。それがセコンドとしてのおじさんの役目だからね」
「わかってます……」
(……クソ、行けよ! 自分から仕掛けろよ!)
第3ラウンドが開始したが俺のエンジンは掛かり切らないままだった。
行かなきゃ、自分から仕掛けなきゃ、何のために試合続行を志願したんだよ! ……と頭では思うのだが足は前に進まなかった。
もちろん体力の消耗や、関節技でダメージを負った膝や腕の不安もあるが、一番は心理的なプレッシャーだろう。
不用意な打撃を放ってまた組み付かれたら、あの寝技地獄をもう一度味わうのだ……そのプレッシャーが俺を消極的にさせていた。
すると。俺の弱気を見抜いたように小仏選手の方から仕掛けてきた。
相手の仕掛けに反撃する形で組んでゆくのが小仏選手のスタイルだったはずだが、こうした一瞬の機微を見逃さないのは流石ベテラン、試合を読む能力のなせる技というところだろうか。
(何だ? このパンチは?)
だが放たれてきたのは、お世辞にも上手いとは言えないジャブだった。
真っ直ぐ最短距離で打つのがジャブの基本だが、小仏選手のジャブは予備動作も軌道も丸分かりだった。ウチのジムの一般会員人……たとえば吉田たちのジャブの方が断然鋭いぜ?
ガシ!
だが余裕を持って避けられる、と思っていたところで頭に衝撃が走った。
ジャブの次に放たれた左フックだった。それほど大したダメージではないが、最初のジャブから予想していたタイミングとはずいぶんと違っており、被弾したことに俺は驚いた。
(……クソ、打ち合いになればこっちのもんだ!)
もちろん俺もパンチを返す。打撃勝負に持ち込めば俺の方が有利なはずだ。
(タックル!?)
俺がワンツーを返し、そこからさらに追撃を試みようとした瞬間、小仏選手が一瞬身体を落とす姿勢を見せた。
ガシ!
そして次の瞬間、左フックを側頭部に浴びていた。
タックルのフェイントからのオーバーハンドフック。さして珍しい攻撃ではないが、それを受けてしまうのは組み付かれるプレッシャーが俺に掛かっているからだ。
MMAの難しさがここにある。たとえば打撃では無敵のキックボクサーがいたとしても、組みへの対応に不安があると、それへの警戒心がスタンドでの攻守両面の能力を半減させてしまうのだ。
(くそ! 八方塞がりじゃねえかよ!)
組みでは多彩な寝技に圧倒され、それを警戒すれば打撃戦も制圧される……やはりプロの壁というものは俺が思っていたよりも高いのだろうか……。
「落ち着いてって。もっと楽しんでいこうよ!」
澄んだ、どこか落ち着いた雰囲気の声が聞こえてきて俺はハッとした。
最前列の席に座っていた
「……だよな」
試合中だというのに俺は思わず声に出して返事をしていた。
何を俺は1人テンパっていたのだろうか?
この試合には絶対勝ちたい。それは当然だ。そのために必死で今までやってきたのだ。
でも勝敗を決めるのは究極的には俺じゃない。勝利の女神がいるのかは知らないが、時の運も偶然も勝負には大きく絡んでくるし、そもそも勝ちたい気持ちは小仏選手も同じだろう。
大事なのはこの勝負を俺がやりたくてやっているということだ。色々なプレッシャーがあっても俺がこの舞台に上がったのは、単純にMMAという競技が大好きだからだ。試合中のこの高揚は他の何物にも替え難い素晴らしいものだからだ。
そして小仏選手が俺のプロデビュー戦に相応しい対戦相手であることは言うまでもない。
師範との因縁などを抜きにしても、小仏真人という選手が誠実に努力を重ねてきた素晴らしい人間であることは戦っているだけで伝わってくる。
だから……この小仏選手にはMMA選手としての俺の全てを知って欲しかった。弱気になって俺を100%発揮できないまま試合を終えることなど失礼だろう。
(こっちはデビュー戦のヒヨッコ。どっちみち負けて元々だもんな!)
膝や腕のダメージの不安ももちろん少しはあったが、戦えないほどではない。
俺には
一旦バックステップで距離を取った俺は、すぐさま自分から飛び込んで仕掛けた。渾身のワンツーだ。
カウンターでタックルを食らっても、また必死で切れば良い。切れずにテイクダウンされてしまったら、またグラウンドで必死にもがいて立ち上がれば良い。
そんな風に開き直った気持ちだった。
ワンツーはアゴ先をかすめただけだったが、俺の気迫にビビったかのように小仏選手は後ろに下がった。
俺はさらにそれを追って飛び込む。
小仏選手も当然それを読んでいたかのようにダッキングで俺のパンチをかわす……そこに俺の左の膝蹴りが命中した。間違いなく次のタイミングで小仏選手は仕掛けてくる、と予測した俺は2回目のワンツーを
この階級では身長が高くリーチの長い俺にとって膝蹴りはかなり有効な技だ。
俺も経験があるのだが、呼吸と打撃のタイミングがバッチリ合った時には本当に息ができなくなる。
ともかくこの機を逃してはならない……と思い、追撃のパンチでラッシュを掛けようと踏み込んだ瞬間、視界の外からのパンチを受けて、今度は俺の動きが一瞬止まった。
ふと小仏選手と目が合う。ちゃんと視線が交錯したのはこの試合初めてだったかもしれない。
仏頂面で気難しい表情をしているイメージの強い小仏選手の目が、ニヤリと笑っていた。
その目を見た瞬間俺には全てがわかった。もしかしたら戦っている者同士しか分かり合えないテレパシーなのかもしれない。
(……クソ、効いたフリかよ! この狸ジジイめ!)
小仏選手の動きが一瞬止まったのは、俺の追撃を誘うためのフェイクだったのだ。
だがまあもちろんそれもアリだ。何でもアリなのがMMAという競技の一番素晴らしい点だ。
俺はさらにパンチを返していった。
「おおっと、両選手とも激しい打ち合いになってきたぁ! 『柔術仙人』の異名を取る小仏選手がこんな激しい打ち合い応じるとは誰が予想したでしょうか!!!」
実況の声を聞くまでもなく、会場のボルテージが上がってきていることはリング上の俺にまで充分に届いていた。