小仏ロールからの足関節技という窮地をなんとか脱した俺だったが、まだ苦しい状況は続いていた。
身体を捻ってエスケープした俺は、小仏選手に完全に背中を向ける状態になっており、バックに付かれたのだった。
立った状態でのスタンドバックとは違い、グラウンドでのバックはかなり不利な状態だ。
「首来るぞ!」
師範の声が飛んでくるよりも先に俺は右手を顔の横に置いていた。そしてその瞬間に小仏選手の腕が首に巻き付いてきた。
(……キツい!)
バックチョーク・チョークスリーパー。背後からの首絞めはバックを取られた際に最も警戒しなければならない技だ。両腕を使って首……特に頸動脈を締め付ける技で、最もポピュラーであるとともに最も危険な技でもある。気道を締められ脳に酸素が送られなくなると簡単に意識は飛ぶ。
それを防ぐためには、絞めてくる相手の腕の間に自分の手を差し込むことが最短の対策だ。間に異物を入れ、絞めるポイントを少しズラすだけで、完全に技は極まらないものだ。
だがそれでも首を絞められているのだから多少は苦しい。組み合った時は小仏選手のフィジカルが強いとは感じなかったが、ここぞという時に極めにくる力はかなり強い。
だが俺の腕が入ったことでバックチョークは極まらない……と小仏選手は判断したのだろう。
左腕を俺の首に巻き付けつつも右手は俺の頭から放し、その右拳で俺の顔面を殴り始めた。
(……チ!)
ほぼ密着して、しかも小仏選手は背中をマットに付けている状態だから、パンチは強いものではないが、もちろん顔を殴られているのだから鬱陶しくはある。
だがこれは罠なのだ。俺がパンチを嫌がり右手を使ってガードしようとした瞬間、小仏選手の右手は再びチョークを狙って差し込まれるだろう。
「足組ませるな!」
再び師範の声が飛んできた。
バックに付いた小仏選手と腕や手が目まぐるしく動く攻防が繰り広げられていたが、実は下半身でも攻防が行われていたのだ。
バックを取った小仏選手が狙っているのは四の字ロックというやつだ。
ちょうど数字の『4』のように、背後から両脚を用いて胴体を完全にロックしてしまうのが四の字ロックだ。こうされてしまうと胴体を動かすことがほとんどできなくなり、完全に逃げ場がなくなってしまう。
四の字ロックを組もうとする小仏選手に対して、俺も自分の脚を用いてそれをさせないように防ぐ。上半身では上半身の攻防をしながら、下半身は下半身の攻防をしなければならないのである。
MMAに興味はあるけれど、寝技の攻防では何をしているのか全然わからない……という人は多いと思う。大まかなポジションの有利不利を覚えたら、ぜひとも脚の攻防に注目して欲しい。脚を使って相手の動きを制限するような形ができたら、基本的には有利な体勢だと思って良いだろう。
(……動け、動け!)
四の字ロックが極まって完全に胴体を封じられては王手だ。そのままコツコツと殴られ続け、逃げ場をなくして極められてしまう。
もがき続けた俺は小仏選手の圧力が一瞬弛んだ瞬間に、左手をマットに付きその勢いで強引に身体を捻った。
多量の汗で両者の身体はにゅるりと滑り、運良く正対するような形に体勢を入れ替えることができた。
「おおっと、ここで田村選手体勢を入れ替えて上を取った~!」
グラウンドの攻防は基本的に上のポジションを取った方が有利だ。
小仏選手の脚も俺の胴体に絡みついているような状態……いわゆるクローズドガードのポジションだが……それでもバックを取られていた先ほどまでとは比べものにならないほど、俺にとって状態は改善したと言って良い。
ここから俺が狙うのは大まかに言えば2つだ。
一つはここからガードしている小仏選手の脚をパスし、左右どちらかのサイドポジションを取ること。
もう一つは、密着しているこの状態からなんとか身体を起こし、小仏選手との間に距離を作って強いパウンドを打つことだ。
先ほどの一連の攻防では俺の劣勢だっただけに、何としてもここで挽回したいところだった。
「保君、脚上がってきてるよ! 三角気を付けろ!」
なんとか上体を起こそうとした瞬間だった。セコンドの師範の声にハッとなった時には小仏選手の右脚が俺の首の辺りまで上がってきていた。咄嗟に右腕を上げた瞬間には俺の首の後ろで脚と脚が組まれ、三角絞めがセットされたところだった。
絞め技・極め技というのは基本的には手や腕を用いて行われる。まあ大抵の人間は足よりも手の方が自在に使えるものだから当然なのだが、MMAでは脚を用いて行われる極め技というのもある。
その一つが三角締めだ。下になっている者が両脚を用いて上に乗る者の首を絞める技だ(もちろん下の者が上の者に極めるだけが全てではない)。股関節の柔軟性がある程度必要だが、ポピュラーな技の一つである。
上のポジションは有利だが、上のポジションを取ったことに安心していると、下からも技が飛んでくるのがMMAの怖いところだ。
「腕抜け!」
チョークを防ぐためには、絞めにくる相手の腕の中に自分の腕を差し込むのが有効だったが、三角絞めの場合はそうではない。
自分の腕ごと絞められてしまうのだ。むしろ上腕の太いところを首の辺りに置いている時の方がそのまま絞められやすいため危険だ。それよりも腕を抜いて手を使って防御した方が有効だ。
幸い小仏選手の三角はポイントが少しズレており、両脚を組んで締め上げるところまではいかなかった。その間に俺も上体を捻って回避することができた。
「油断するな! 十字来るぞ!」
一瞬ホッとした瞬間にまた師範からの声でハッとする。俺の右腕は小仏選手に掴まれたままだったのだ。
首の後ろで組まれていた小仏選手の左脚が、いつの間にか俺の顔の前に回ってきていたのだ。そのまま俺の右腕を引き絞るように伸ばされる。
腕ひしぎ十字固め。これも最もポピュラーな寝技の一つだ。
必死に俺は自分の右手と左手でクラッチを組み、右腕が伸ばし切られないように耐える。
(ヤバい!)
「あと10秒だ。耐えろ! 耐えろ、保君!」
散々の寝技地獄にかなり筋力・体力を使い切り俺は限界だったが、師範からの「あと10秒」の声で一気に希望を取り戻す。
そして……
カーン!
第2ラウンド終了のゴングが鳴った。