「お腹減ったね~、今日は何にする?」
「え~、ごめん、今日はサラダだけにする。ダイエット中なのアタシ!」
「え~、嘘! リカ全然痩せる必要ないじゃん!」
(あ~、うるせえ! うるせえ! うるせえ!!!)
大学での昼休み、学生が一堂に会する食堂でのことだった。
たとえプロデビューの試合が迫っていようと、世間一般的に見れば俺の身分は大学生だ。毎日大学に通い講義に出席しなければならない。きちんと大学に通い4年で卒業するということを条件に俺はプロ格闘家を目指すことを許されたのだった。
しかし何なんだコイツらは?
男も女もチャラチャラと遊ぶことしか考えていないようなヤツらばかりだ。
しかも何だ! お前らは計量が迫っているのか? 体重を落とせなければ試合が飛んで今までの努力が水の泡と消えるのか? そんなわけないだろ! お気楽にダイエットなどと口にするな! こっちは食いたくても満足に食えないんだぞ!
「おつかれさま、大丈夫?」
肩を叩かれ振り返ると学食をトレイに乗せた
「……大丈夫、って何が?」
「いえ、保君がとっても怖い顔してたから」
そういうとすずは俺の顔を見てクスクスと笑い、そのまま俺の向かい側の席に座った。
……いかんいかん! どうも見ず知らずの女子学生たちに対するイラ立ちが傍目にもわかるほど顔に出ていたようだ。
「大丈夫よ、誰も保君のことなんか気にしてないから。っていうかウチの父も減量の時はイライラしてたからわかるのよ。……って言っても計量の前日などは家にいないことがほとんどだったけれどね」
「ああ、そっか……そうだよね」
紋次郎師範も長くプロ格闘家としてやってきたのだから、娘であるすずも減量の苦しみは目にしてきたはずだ。
「でも、保君の弁当を見たら、減量中だなんてまるで説得力がないけれどね」
すずが俺の手弁当を見てまたクスクスと笑った。
「……めっちゃ減量食だっての! 普段の半分以下だよ!」
ややムキになって俺は答えたが、改めて自分の弁当を見るとすずの言っていることももちろん理解できる。
今日の弁当は鶏ひき肉と野菜のガパオライス風だ。もちろん普通に白飯も300グラムほど食べる。夕方からは練習だからきちんとエネルギーを摂っておかなければならない。
ただ今までガッツリ食べていた練習後夜飯の炭水化物は抜く。プロテインとサプリメント、それと果物を少しだけだ。
女子大生やOLさんからしたら減量とは程遠い食事に思えるかもしれないが、まだ練習も普通にこなしている時期なのでこれでもグングン体重は減ってゆく。それだけ格闘家やアスリートの代謝と消費カロリーは普通の人とは段違いなのだ。
ただ俺からしたら、これでも減量食なので多少ストレスは溜まる。吉田から頂戴した『大食』のスキルが増量期には筋肉を増やすのに大いに役立ったが、減量期の今は俺を苦しめているのもたしかだ。
「瘦せたなぁ! 大丈夫かよ?」
いよいよ試合の3日前となった。
その日も俺はキックボクシングクラスの指導をしており、クラス後に吉田が声を掛けてきたところだった。「試合直前だからクラスの指導は休んでも良いよ」と師範は言ってくれたが、むしろ普段していることをしない方が調子を崩しそうな気がしたので、いつも通り引き受けた。
「大丈夫! コンディションもばっちりだよ!」
俺は大袈裟に親指を立てて吉田の言葉に応える。それに合わせて吉田の子分たちからオー! という盛り上がりなのか、
「最前席取ったんだからな、絶対勝てよ!」
「見ててって! ブチかましてやるから!」
俺の強気な言葉に再び吉田たちは沸く。
今日は5月26日木曜の夜だ。明日27日は大学も休んで計量に向けての最終的な調整を行う。
28日の午前中が計量となっており、29日の午後がいよいよ試合本番だ。
(……やべぇ、寝れない……)
吉田たちの前では強気な言葉をあえて使ったが、正直言ってフラフラして頭も上手く回っていなかった。まだ水分は普通に摂っているが食事はかなり制限しているし、水抜きのために塩分を減らしているから時々足が吊ったり、話していても舌が上手く回らなかったりする。
クラス指導が終わった時はかなり疲れていたのですぐ眠れると思っていたのだが、いざ布団に入ってみると驚くほど目が冴えてしまった。
当然試合前の緊張感もあるし、食事量も練習量も減っているから普段とはかなり体調が違うのが原因だろう。
(もしデビュー戦でしょっぱい負け方したらどうしよう……?)
眠れない夜に頭に浮かんでくるのはネガティブなことばかりだ。
今までもユースカップなどで試合前の緊張感は味わってきたが、今回は今までとは違う。
もうプロとしての試合なのだ。俺1人が自分の好き勝手やって、誰にも気にされず負けるなら良い。でももうそんな段階はとっくに過ぎてしまっていた。周囲の色々な人の期待を背負って、そして俺自身もプロになるために時間と情熱をここに注いできたのだ。
デビュー戦は一度っきりだ。どんな試合になっても一度しかない。この初戦で今後のプロ生活がある程度決まってしまうような気が、どうしても俺の頭からは離れないのだ。
だから……どうしても勝ちたい。負けることが途轍もなく怖い。
(リング上は結局1人だもんな……)
もう一つ浮かんでくるのはそのことだ。師範も、練習仲間も、吉田たちも、ジムの会員さんたちも本心で俺のことを応援してくれている。それはわかっている。
でもこの不安を感じているのは間違いなく俺だけなのだ。皆は……リングに上がって戦っている俺のことは本気で応援してくれるだろうが、今この眠れない時間を戦っている俺のことなど想像もしないだろう。
やっぱり格闘技は突き詰めれば1人の戦いなのだと思わざるを得ない。
「田村保選手、61.0キロ。計量クリアです!」
「小仏真人選手、60,6キロ。計量クリアです!」
どれだけ苦しい思いを抱えていようとも時間は平等に過ぎてゆく。
苦しい減量、水抜きをこなし、何とか俺は計量をクリアすることができた。試合本番はまだ明日だが、すでに一勝負終えたような感覚だった。
「フェイスオフです! 両選手、中央にお願いします」
ダンクラスというマイナー団体でも多少はカメラが入っており、中央でファイティングポーズを取った俺と小仏選手に向かってフラッシュが焚かれる。
フェイスオフというのはこうして試合前に対戦選手同士が向かい合い、これから戦いますよ、というアピールの場だ。
「……よろしくお願いします」
「よろしくね、田村君」
フェイスオフが終わると、俺は自分から小仏選手に握手をして挨拶した。
フェイスオフでは時々選手同士の乱闘騒ぎになることもある。
「単にアピールとして乱闘を起こしているだけだ」と冷めた見方をする人もいるだろうし、もちろん実際に自己プロデュースとしてそうしている格闘家もいるかもしれないが、そうなってしまう心境は理解できる。
目の前の相手と死ぬ気で殴り合って戦わなければならないのだ。MMAはもちろんスポーツではあるけれど、正直に言えば殺し合うくらいの覚悟を持って臨まなければまず勝てない。
もちろん俺はデビュー戦の若造だということもあって理性的に振舞うつもりだったし、小仏選手もベテランらしい穏やかさを湛えた人だから今回はそういう風にはならなかったが、俺だって相手の振る舞い次第ではどうなるかわからない。
試合を控えた格闘家はかなりナーバスになっているものだということは理解してほしい。