「保君、差せ! 差して投げろ!」
師範からの指示の声が飛んでくる。
その通り俺は首相撲から脇を差して投げようとしたが、逆に内股を引っかけられ後方に
すぐさま抑え込もうとしてくる相手の胸の辺りに足を当てエビの要領で押す。その勢いのまま思い切ってでんぐり返しのように後転し、なんとかその場からエスケープした。
ピピピ、ピピピ、ピピピ……
壁を使って立ち上がろうと思った瞬間タイマーが鳴り、ラウンドの終了が告げられた。
「……あっした」「……した」
軽く挨拶の握手をすると俺もスパーリングの相手だった
「……いやぁ、田村君レスリングもだいぶ強くなったっすね。このラウンドは結局1回もテイクダウンできなかったし」
「……何言ってんすか、さっきは思いっきり一本取ったじゃないですか」
息も少し整ってきたところで大兼君が話しかけてきた。
そう、俺が今スパーリングをしていた相手は高1のダンクラスユースカップで敗北した相手、大兼隼人君だった。
実は大兼君とは翌年(俺が高2の年)にユースカップの決勝を戦っている。そこで大兼君は優勝して……つまり俺に勝って……一足先にプロのMMA選手としてデビューしていたのだ。
大兼君は所属しているジムの意向もあり『ダンクラス』ではなく『
そうした縁もあり時々こうして出稽古に来てもらっており、俺の方から大兼君のジムにお邪魔して一緒に練習することもある。
同世代でMMAを本格的にやっている人間は希少だし、とても良い刺激を与えてもらっている存在だ。
「いやぁ、でも打撃がマジだったらあの前に一発もらってたからなぁ……田村君の打撃は鋭いし、目測よりもかなり伸びてくるっすよ、ホント。田村君の打撃があればデビュー戦も勝てると思うっすよ」
「……うっす。ありがとうございます」
友人のような関係とはいえ、先にプロデビューしている先輩の言葉は説得力がある。最初のラウンドに一本取られ、2ラウンド目は引き分けだったので今回のスパーリングは俺の負け越しだが、大兼君の言葉に少しだけ自信を取り戻すことができた。
今の「打撃がマジだったら」という大兼君の言葉には少し理由がある。
MMAのスパーリングでは本気で殴り合う場面はほとんどない。ボクシングやキックボクシングのスパーリングでは試合に近い強度で行うケースも多いようだが、MMAでは少し違い打撃は軽く、あるいはマス(ほとんど当てない)で行い、組みや寝技は本気で行う……という形式が多いのだ。
理由は簡単でMMAの薄いグローブで試合同然の打撃を当て合っていては、あまりにダメージが大きくすぐに怪我をしてしまうからだ。これは何も我々がデビューしたてのヒヨッコ選手だからではなく、トッププロでも基本的に本気の打撃アリでMMAスパーリングをすることはほとんどないそうだ。
もちろんある程度強度の高い打撃スパーリングも絶対に必要だ。そういう時は大きめのグローブを着け、ヘッドギアもレガースも着けてスパーリングを行う。ただボクシンググローブを着けると手が完全に覆われてしまうため寝技の攻防はあまりできない。
本当に全力を動員したMMAは基本的には試合の時だけ、ということになる。
「保君、じゃあ次は高松君とやろう」
「っしゃ、待ってたで!」
師範の言葉に俺よりも先に高松君が返事をした。
同じくユースカップの初戦で戦った北高の元ヤン選手(本人は元ヤンだということをなぜか頑なに認めないが)、
「ありがとうございました~! 田村君、試合頑張ってね。絶対勝てるから!」
「オレも応援行くからな! しょっぱい試合したら許さへんで!」
久しぶりに2人と練習できて、いい刺激をもらったし自分の課題もまた浮き彫りになった。
「保君、体重はどうだ?」
練習後に師範が話しかけてきた。
「さっき測ったら67キロくらいでしたね」
「そうか。まあ問題ない範囲内だと思うけど、早めにしっかり落としていこう」
俺のダンクラスのデビュー戦まで1ヶ月ほどに迫っていた。
師範が体重を気にしたのは階級ごとに契約体重が決まっているからだ。団体ごとに若干異なるが、ダンクラスでは俺の出場するバンタム級は61キロが契約体重となる。試合の前日に計量があり、そこで契約体重をオーバーしてしまうと失格だ。
「若いうちから大量の水抜きに頼るのは健康面を考えると絶対にダメだ。でもプロである以上契約体重は絶対に守らなきゃいけない。試合以前に一つ闘いがあるようなものだよ」
以前から師範はことあるごとに何度もそう言っていた。
MMAは階級制のスポーツだ。計量をしっかりクリアしないと当日のリングに上がれず試合が成立しない。自分だけでなく対戦相手、興行関係者やお客さんたち……全方位に多大なる迷惑をかけることになるわけで、それだけでプロ失格と言われるのも当然のことだ。
ジムに通い始める前は60キロジャストくらいだった俺も、今ではだいぶ増量し通常体重は70キロほどになっていた。ユースカップで最終的に優勝できたのはやはり筋肉量が増え、フィジカルが強くなったことが一番の要因だと個人的には感じていた。そこには吉田から獲得した『大食』のスキルも大きく貢献していた。
しかし当然61キロのバンタム級で戦っていくとなると、当然計量のため減量しなければならない。普段の体重で戦える階級でやれば減量の必要もないじゃないか……と思う人もいるかもしれないがそうもいかないのが実情だ。
皆が減量ありきで戦っているのだから、自分だけ通常体重で収まる階級に上げるとなると、試合では自分よりデカい相手と戦わなければならなくなる。下手すると10キロ近く体重差がある相手と試合をしなければならなくなり、まあそんなのははっきり言って勝負にならないだろう。
また試合の前日に計量があるというのもミソだ。計量さえクリアすれば試合当日にはどれだけ体重が増えていようが問題ない、とする団体が多い。海外のトップ選手だと当日には10キロ以上も体重が増えているケースがザラだそうだ。
こんなことが可能になるのは『水抜き』という減量手法が広まったことによる。計量に向けて水分と塩分の摂取を断ち、半身浴やサウナなどで汗をかいて強制的に水を出すのだ。計量をクリアしてから水分を摂れば体重は一気に戻る。
もちろん脱水症状で身体に変調を来すのは当然だ。病院送りになる選手も多い。計量には成功してもムリな水抜きは内臓の負担が大きく長期的な健康のためには絶対マイナスだ。
それでも試合で相手よりもフィジカルで優位に立ちたい、ということで『水抜き』は格闘技界では常識になっているのが現状だ。
そうした要素を考慮して「最終的に水抜きをするにしても1キロ以内に抑える」というのが今回師範の立てた方針だ。
そのためには事前に余裕を持ってしっかりと減量しておかなければならないわけだ。