「お疲れ様です……」
翌日、師範と共に都内にある雑居ビルの一室を訪れた。
「おう、来たか」
何となく古めかしく薄汚いその部屋にいたのは、ダンクラスCEO(一番偉い人)の笹塚さんだった。笹塚さんが金属製のイスを回転させて振り向くと、その巨体に合わせてギィと大きな音が鳴った。
「田村保です。よろしくお願いします!」
俺は気合を入れて挨拶した。プロ格闘家としてデビューさせてくれる団体のトップに対して緊張するのは自然な感情だろう。
「おう、久しぶり。ユースカップの時会ったよな! ってか紋次郎から聞いたんだけどよ、高校入って何のバックグラウンドもなくいきなりMMA始めた……しかもその前はいじめられっ子だったってホントか!?」
「えっと、まあ、そうですけど……」
今笹塚さんが言った通り、この人と会うのは今日が初めてではない。
笹塚さんもユースカップのトーナメントの際には毎回会場で観戦していたはずだし、数ヶ月前俺が優勝した時には、リングに上がってトロフィーを渡してくれ、握手もした。
しかし面と向かってこうして話すのは初めてだった。身長は俺よりも小さいくらいだが、とにかく横にデカくて、その巨体に比例するかのように態度も声も大きい人……という印象だ。
「で紋次郎。この子はどうなの? やってけるの?」
笹塚さんが師範に話を振った。
師範はプロキャリアのほとんどをこのダンクラスという団体で送ったので、当然笹塚さんとも長年にわたる付き合いなのだろう。
「いや、保君は良い選手ですよ! それにもっともっと強くなると思いますし!」
師範も俺を売り込みにきた立場であるから強くそう答える。
「そうなの? 全然強そうには見えないけどな……ま、ファイターってのはリングの上で戦ってこそナンボだからな。期待してるよ」
笹塚さんはあまり興味のなさそうな顔をしながら、俺の肩をポンポンと叩くとイスに再び腰を下ろし、もう用は済んだとばかりに机の上のパソコンに目を落とした。
「あの、笹塚さん? 今日は保君のデビュー戦の相手が決まったと聞いて伺ったんですが……」
おずおずと師範が声を掛けると、大袈裟に手を叩き笹塚さんは立ち上がった。
「そうだったわ! 悪い悪い。対戦相手は小仏君にお願いすることにしたわ。あ~……あったあった、契約書も作ったから読んでオッケーならサインして! なんかあったら何でも質問してくれて良いから!」
投げ出された契約書はペラ紙1枚っきりのもので、師範と2人で目を通すのにさして時間はかからなかった。事前に聞いていた契約や試合条件等とも相違なかったのでその点は問題ない。
それよりも一番気になるのは……
「
俺は隣にいる師範の小声で尋ねた。もちろんデビュー戦の相手がどんな選手だろうと俺は試合を受けるつもりだった。デビュー戦で相手を選り好みなどできる立場のはずもないし、プロの真剣勝負の場に立ってみなくては自分の実力も測れないだろう。
「小仏君、まだ現役でやってたんですね。……大丈夫、保君! 小仏選手はおじさんもよく知っている選手だ。もちろんベテランだから技術も経験もたしかだが、今の保君にとって勝てない相手じゃないと思う!」
師範の言葉に俺よりも先に返事をしたのは笹塚さんだった。
「オッケー、じゃあ試合成立ってことで良いな? 5月29日期待してるぞ! じゃあまた詳細はメールで送るから、サインだけしていってくれ」
「なんか、思ってたよりもあっさりしてましたね。もっと仰々しいのかと思ってました」
契約書にサインを済ませると、早々に俺と師範は笹塚さんの下を辞した。
あまり俺自身の意志の介入する間もないまま
「ああ、まあね。ダンクラスは老舗ではあるけどマイナー団体だから、規模も大きくはないしね。……笹塚さんもああいう感じでざっくりした人だから」
師範が車を運転してここまで乗せてきてくれたのだった。帰りもハンドルを握るのは師範本人だ。わざわざ俺のためにそこまでしてくれて、本当に頭の下がる思いだ。
「そうですね。まあ無事に決まってホッとしてますよ……」
映像で見る日本で最も有名なMMA団体『FIZIN』や世界最高峰のアメリカMMA団体『WFC』の舞台裏の映像などをよく見ていたので、俺自身がそうした舞台に上がる特別な人間に成ったかのような錯覚を覚えていたのだが、終わってみれば実にあっさりとしたものだった。
何なら大学の入学にまつわる手続きの方が大変だったくらいだ。
「笹塚さん、悪い人じゃないんだけどね……。長くダンクラスの運営を続けてきたし、その中には有名選手を発掘し育ててきたっていう自負もあるんだろうから、まあああいう態度だし口も悪い時もある。あんまり気にしなくて良いよ」
師範がそう言うまで気にも留めていなかったが、たしかに笹塚さんは一癖ありそうなおじさん……という印象ではある。まあそれは俺がまだ高校を卒業したばかりのガキだということもあるし、そもそも格闘技の団体主催者を何十年も続けているような人物は一筋縄でいくような人物ではないだろう。
「それより……対戦相手の小仏選手ってどんな選手なんですか?」
俺が気になるのは圧倒的にそちらの方だ。大事なプロデビュー戦はなんとしても勝ちたい。師範がその選手を知っているということは心強いし、戦略も立てやすいだろう。
「ああ、実は……おじさんが最後引退試合をした時の相手が小仏選手だったんだよ」
予想外の師範の返答に流石の俺も驚いた。