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第40話 プロって何?

(そういえば、いつの間にかずいぶんと暖かくなってきたな……)


季節は巡り春の気配を感じる頃になっていた。俺を取り巻く環境も大きく変化していた。

俺は地道に努力を続け、高3の冬には『ダンクラスユースカップ』に優勝することができた。

才能ある同世代の選手たちを目の当たりにする度「自分には格闘技なんて向いていないのではないだろうか?」と何度も思ったが、それでも俺は紋次郎師範の下でMMAを続けやっと結果を出すことができた。

そしてこの5月にはいよいよ『ダンクラス』でプロデビューすることが決まったのだ。

まだ対戦相手は決まっていないが、ユースカップで好成績を残した選手はプロデビューすることが慣例だったから、俺のプロデビューもそれに倣ったものだ。


「保君、もう1ラウンド行こう!」

「……はい!」


試合まで2か月を残していたが師範の指導も熱が入っていた。試合直前の期間は、減量とコンディションを保つだけの練習で精一杯になる。しっかりと追い込む練習ができる期間はもうあまり長く残されていない。


「……ふう」


グラップリングのスパーリングを終えると、俺はマットに全身を投げ出した。今日も余力を残すことなく練習を終えることができた。

今日はグラップリングを中心とした練習だったから、相手を変えて何ラウンドもスパーリングを繰り返した。最後には師範とも2ラウンドスパーリングをした。

ジムに入門した当初、師範にはまるで子供のように遊ばれていた俺だったが(高1で入門したのだから実際子供だったと言えるかもしれないが)、今ではほとんど師範とも対等にスパーリングができる。打撃もアリのMMAスパーになれば、師範にも優勢に進めることができるほどにはなった。


「……お疲れ様、明後日から大学だけど準備はしてる?」


マットに伸びていると、森田が声を掛けてきた。

森田紋次郎師範の1人娘であり、このジムの看板娘(?)でもあり、俺がこの『FIGHTING KITTEN』に入門した当初から何かと気を遣ってくれる存在だ。


「やっべ……すっかり忘れてた」


死角からパンチをもらったような感覚だった。5月のプロデビューのことで頭が一杯でその前にある大学のことは、入試に合格した時点でもう終わったような感覚になっていた。


「だと思った! 明日はオフでしょ? 私も付き合うから買い出しとか一緒に行こ?」


すずも俺と同じ桃林常葉ももばやしとこは大学という大学の経済学部に入学することが決まっていた。

すずは将来的にジムの経営に生かせるように……という立派な動機があるが、俺の方は正直言ってそこまで明確な目的意識を持って進学先を選んだわけではない。なんとなくだ。


元々遊ぶ友達も少なく、部活もやっていなかった俺はそこそこ成績が良かった。優秀とは程遠い我が母校、桃林第一高校いちこーの中では上位の成績だったほどだ。

しかし何か明確な将来的目標があるわけでもなかったので、MMAにのめり込んでゆくにつれて大学に進学する意志は薄れていった。少しでも練習する時間を長く取った方がプロになるためには良いだろう……という考えだった。

2年生のユースカップの際は両親とも会場まで観に来てくれており……その時は準優勝だったのだが……少なくとも俺が本気で格闘技に打ち込んでいることは伝わったはずだ。それで、卒業後はプロ格闘家を目指すために進学はしない方向で両親を説得しようと思っていたのだが、それを押し留めたのは師範だった。


「絶対に進学した方が良い。格闘家として過ごす時間よりもその後の人生の方が断然長いんだ。それに様々な経験を積んでおくことはMMAのためにも絶対にムダにはならないよ」


温厚な師範には珍しく強い言葉に促され、俺は自分の考えを改めたのだった。




「は~い、じゃあクラス始めますよ! 皆さん、正面に礼!」


それから数日が経った。大学の入学式を終え、ガイダンスやら諸々の案内を終え週末となった。

どうも大学という場所には浮かれた空気がいつも漂っているみたいで、俺も道端でたまたま声を掛けてきた何人かの先輩に新歓コンパというものに誘われたのだが、何とか振り切って帰ってきたのだった。


「は~い、じゃあ柔軟からいきましょう。終わったらミットとグローブを着けて2人1組になって下さいね」


今日は俺が師範に代わり、インストラクターとしてクラスを指導する日だった。

最近ではこうして週に何回かクラスの指導も担当している。一般会員の人たちを指導して多少のバイト代をもらっているというわけだ。

俺にとっても何か別のバイトを探すのは今さら面倒だし、それならば格闘技に関わることに時間を費やした方が有意義だろう、という師範の配慮でもある。

しかし最近ではジムの会員さんたちの数も増え、クラス数も増えたため師範1人では到底回せないスケジュールになったという理由もある。そのため俺以外にも外部からプロ経験者をインストラクターとして招いている現状だ。

まあつまり『FIGHTING KITTEN』は順調な経営だと言って良いだろう。


「ちわっす~」

「遅いよ、吉田君!」


クラスを開始してから10分以上経ってから、吉田佳友よしだよしともその人が入ってきた。


「んだよ、保……仕方ないんだって、帰り渋滞にハマっちまってよぉ……」

「良いから早く着替えて!」


吉田は作業着姿のまま言い訳を始めようとするところだったが、俺はインストラクターとしてビシッと言ってやった。同級生として浅からぬ仲ではあるが、この場ではきちんと立場を弁えなければならないのだ!

……と思ったら、クラスに参加している10人ちょいの会員さん全員が、俺と吉田のやり取りを見てクスクスと笑っていた。


「まあまあ保センセイ、仕事で遅れることくらいはよくあることだしさ」「そうそう。あんまり厳しくすると吉田君たち辞めちゃうかもよ? そうしたら保センセイの責任問題になるかもね?」


ニヤニヤ笑って口火を切ったのは平本さんだった。

他の会員さんも俺と吉田の関係性を理解しているし、ついこの間まで高校生のヒョロガキだった俺が一生懸命にセンセイをやろうとしているのが、どこか滑稽に映るようだ。


「もう……わかりましたって。さぁ、クラスを続けましょう!」


もちろんその根底には俺に対する愛があることは伝わっているのだが、未だに子供扱いされているような気がして俺はどこか面映ゆい気持ちを覚えたのも正直なところだ。




(……まあ、アイツらもよくやっているよな……)


今日この時間にジムにきているのは吉田1人だけだが、他の5人も全員ジムに入会し今のところは定期的に練習に参加している。しかも全員が就職して働きながらだ。

ついこの前まで高校生だった人間が社会人として働くというのは色々と大変なことも多いだろう。仕事の大変さだとか、嫌な先輩の話だとかもよく聞く。俺と同じ歳でありながら社会の一員として働き、仕事後にジムにきて汗を流すというのは簡単なことではないと思う。

俺がお気楽な大学生をやりながらプロ格闘家(?)をやるよりも、彼らの方がよほど努力しているのではないだろうか? やっぱ元ヤンは気合が違うよな! というのも単に笑い話で済ませられない一面の事実を含んでいるのだと思う。


「保君、明日か明後日あたりちょっと時間あるかい? ダンクラスの社長が保君に会いたいって言ってるんだよ」


そんなことを思いながらジムでの指導を終えると、帰り際師範に声を掛けられた。




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