「師範……ちょっと悪いんですけど、感動の再会はもうちょっとだけ待ってもらえませんか?」
気付くと俺は、紋次郎師範とかつての弟子である野島との再会を押し留めていた。
2人には2人の事情があるに決まっているし、それが大事なものだということは重々承知しているが、俺には今の野島が対戦相手としてしか見えていなかった。
そして師範がどれほど俺にとって偉大なセコンドだろうと、試合中に割って入るなんてことはできないはずだ。
「……流石だな、少年。俺も同意見だったんだよ。まだ判定でも勝敗を決められるほどの時間は闘ってないもんな!」
野島は俺の言葉にうなずき、そして仕掛けてきた。
「あ、おい、2人とも……」
「は~い、野島さんがああ言ってるんだからおっさんは大人しく観戦しましょうね~」「特等席で観れるなんて感謝しろよな、おっさん」「つ~か、フツーは部外者のおっさんは問答無用でボコるけどな」
師範が野島に何か言おうとしたが、北高ヤンキーたちに阻まれ近付くこともできそうにはなかった。
(……くそ!)
自分から仕掛けようとしていた俺だったが、今は野島のプレッシャーによって受け身になってしまっていた。先ほどのテイクダウンを食らって迷ってしまっているのだ。
野島の小さな動きにビビッてタックルを切らなきゃ! ……と腰を引きかけた瞬間、ジャブを顔面に被弾した。止まりかけていた鼻血が再び流れ出てくるのを感じた。
だが次の瞬間俺が反射的に右のパンチを振ったタイミングで、再び組み付かれたことの方が問題だった。完全にカウンターのタイミングでタックルを合わされたから、そのままリフトされて倒されるかと思ったが予想に反して俺の足は地面に接したままだった。
(いや……野島も消耗してるんだ!)
今回は脇を差しただけの胴タックルで、そこから野島は俺の脚を刈って柔道の大外刈りのような体勢で投げを狙ってきたが、その力は最初の時に比べればかなり落ちてきていた。
だがもちろん油断はできない。今も組みの攻防では俺が後手に回っていることは確かだし、そもそも俺だって野島と同じくらい疲労しているのも確かなのだ。
なんとか体勢を立て直した俺は、崩された体勢から四つの体勢に戻す。
(来る!)
野島が俺の背中から両手を抜き、再び足元へのタックルに沈み込む兆しを見せた。それに合わせて俺も沈み込む。ここで完全にタックルを切りスタンドでの打撃の勝負に持っていくつもりだった。
(……いや、上か!)
一瞬沈み込んだ俺の反応を読んでいたかのように、野島は伸びあがり俺の首の後ろに両手を回した。いわゆる首相撲の体勢だ。自分から姿勢を下げた俺の首を掴むのは野島にとって容易なことだっただろう。
そのまま野島は俺の頭を掴み右膝を顔面目掛けて打ってきた……。まともに浴びれば即KOだろう。
(くそ! 少しでも動け!)
俺は少しでもまともに膝を受けないように頭を左にずらしながら、右腕を曲げて垂直に立てた。少しでも野島の攻撃の妨害になれば……と反射的に出した腕だった。
ゴツッ!
野島の膝は俺の目の辺りをかすめた。正面からの直撃は避けられたが、目の端辺りに浴びて視界が霞む。俺の右肘も少し手応えはあったが、ほとんどヤケクソで出した攻撃だ。さしてダメージにはなっていないだろう。
だが野島の首のフックはいつの間にか外れていた。あのまま首相撲の体勢が続き何度も膝蹴りを浴びると思っていたので、こうしてスタンドの状態に戻っているのはラッキーなことだった。
「……やるじゃねえかよ、少年……」
ふと見ると、向き合った野島の顔面は赤黒い血で濡れていた。その顔面とは裏腹に野島はひどく嬉しそうな声を出した。
何だ……? 野島の顔面の血は俺の打撃によるものなのか? その姿と声のギャップに思わず俺もたじろぐ。ヤツの中の狂気をここまで感じたのは今までやり合ってきて初めてのことだった。
野島が再び突っ込んでくる。パンチのフェイントも入れず、頭を下げて真っ向からタックルにきたが、思わず俺は後方に大きくステップを踏んで避ける。
「逃げんじゃねえよ、少年!」
コンクリートの壁を蹴って野島が追撃に来る。今度は右手を大きくぶん回したロングフックだった。
その迫力に思わずたじろぎ、今度は俺の方から野島に組み付いていた。
両脇を差し頭で野島の顔の辺りを押して嫌がらせをする。これも組み技のセオリーの一つだ。
だが俺の髪をぬるりと生温い感触が伝う。なんだか不気味な気持ちになり、思わず両手のクラッチを切ってしまった。
「……どうしたよ、少年。テイクダウンの絶好のチャンスだったぜ?」
再び距離を取って見た野島の顔面は先ほどよりもさらにひどく、真っ赤に濡れていた。その右目は滴る血に視界を塞がれほとんど見えていないようだった。
……どうやら首相撲の際に俺がデタラメに出した肘が野島の目の上辺りにヒットしたようだ。
肘の骨は固く鋭い。打撃の衝撃によるダメージというよりも、切り裂くような打撃が皮膚の薄いところに当たると、切れて血が噴き出してくることが時々あるそうだ。
「……何迷ってんだよ、少年! 来いよ!」
野島は叫びながらパンチを振り回してきたが、そのパンチは距離感がかなり狂ったものだった。俺が軽く一歩避けただけで、大きくたたらを踏んで野島はよろけた。
「もう、やめよう……野島さん」
俺は両手を下ろし構えを解いた。本心で野島の身を案じていたのかはわからない。顔面を血で染めながら突貫してくる野島の狂気が怖かったというのが本当のところかもしれない。
俺の言葉に野島は一瞬だけ興醒めしたような表情をして、自分の顔を手で拭った。
「……くそ、しゃあねえなぁ……少年。オマエのTKO勝ちだわ」
野島は自分の手に付いた鮮血を確認すると苦笑し、両手を挙げながらすとんとその場に腰を下ろしてしまった。