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第34話 組技の差

「保! ……頼む、頑張れ。頑張れよ!」


一連の攻防を見て吉田は俺が押されていると判断したのだろう(実際そうなのだが)。その声援はやや悲痛なものに聞こえた。

だが俺はそのことで動揺したり感情を動かされたりはしない。劣勢は劣勢だが、攻防の流れ自体は想定通りのものだからだ。


(だが、どうする?)


打撃の展開は俺の狙い通りだったが、このままではノックアウトされるだけだ。なんとかして一発入れなければ勝ち目はない。


(……いや、そうじゃない! いつの間にか近い!)


微妙に距離感が変わっていることに俺は気付いた。

遠間の打撃の攻防を繰り返していると思っていたが、ステップの出入りの度に野島はほんの少しずつ間合いを詰めてきていたようだ。距離にすれば10~15cm程度の差なのだが、そのわずかな違いによって打撃が当たるか当たらないかは変わってくる。

バックステップを踏んで距離を作り直そうとしたが、後ろはすでに廃工場のコンクリ壁だった。ここで迎え撃つしかない!

近い距離で蹴りを出すのは愚策だ。蹴り足を掴まれたら簡単にテイクダウンされてしまう。俺は右ストレートをフェイントに左のフックをボディに放った。


「……ぐ」


野島のボディに俺のパンチはまともに入ったが、その時すでに俺は野島に密着されていた。


「へへ、もらったぜ!」


(……やばい!)


野島の両腕に俺は両脇を差されていた。


「……なあ、どっちが有利なんだ?」「派手な殴り合いなら、わかりやすいんだけどな」「仕方ねえだろ。あっちのシャバ僧も格闘技やってるっつうから、野島さんもワンパンでKOってわけにもいかねえんだろ」


傍で見ているヤンキーたちからそんなヒソヒソ話が聞こえてきた。

……まあそうだろう。単純な殴り合いなら一目で戦況はわかる。グラウンドの展開でもマウントポジションを取った方が有利だということくらいは浸透しているだろうが、この組み合った状況は馴染みのない者にはごちゃごちゃと何をやっているかわからない攻防だろう。

相手の腕の内側に自分の腕を潜り込ませることを「脇を差す」という。

両者が片方ずつ脇を差し合った状態を「四つで組む」「四つ組」と呼んだりする。その状態は基本的に五分五分と考えて良い。

では今の俺のように両脇を差された状態はどうか? ……圧倒的に不利なのである!

相手の腕の外からいくら力を込めても相手の身体をコントロールは出来ない。それに対し両脇を差した野島は俺の胴体を簡単にコントロール出来るからだ。


野島はさきほどの打撃の攻防の中で、こうした組みの展開を狙っていたということなのだろう。

俺はジタバタと浮いた腕で野島の頭を殴ったが、密着した距離で殴ってもほとんど威力はない。

組みを切るには相手の身体と自分の身体をなるべく離し、足を後ろに付き身体を前に倒す動き(スプロール)が基本だが、両脇を差されては身体が密着してしまうし、後ろはもう壁で足を付くスペースも消されていた。

つまりテイクダウンされることは必至の状況というわけだ。


「っしゃ!」


野島の両手が俺の背中に回りクラッチ(がっちりとロックするような状態)が組まれる。次の瞬間には俺の身体が地面から浮き上がった。

野島は体格的にはほとんど俺と同階級くらいだろうが、同じくらいの相手でもしっかりと組んでしまえばこうしてリフトして(身体を持ち上げて)投げることは難しいことではない。


うおー!!

俺の身体が浮いた瞬間北高ヤンキーたちから歓声が上がる。流石にこれはどちらが有利か一目瞭然だ。


(やばい!)


投げられることは普段のスパーリングではよくあることだし、テイクダウンの攻防で勝負が決まるわけではない。MMAの場合はここからの寝技の展開がさらにあり、勝負はここからと言っても良い。

だがここはジムの柔らかいマットの上ではない。壁も床も冷たく固いコンクリートであり、投げられて打ち所が悪ければそれだけで一発KOとなる可能性もある。


ダン!

壁に叩き付けられるかと思ったが、野島は壁側ではなく中央の広いスペースに俺を投げた。

何とか右手一本で受け身を取り致命的ダメージは防ぐ。今が冬で厚手のパーカーを着ていたことも大きかった。もし夏場Tシャツ一枚だけだったりしたら、大ダメージを負っていたことは想像に難くない。


「……へへ、テイクダウン成功っと」


だがその時に野島はもう上のポジションを取っていた。野島はテイクダウンした後の攻防まで考え、自分が良いポジションを取れるように俺を広い中央に投げたということだ。


「少年も立ち技は良かったけど、組みはまだまだだな……」


野島の左足が俺のガードの両足の間から右に抜け、俺の右脇の近くに置かれている。いわゆるハーフガードと呼ばれるポジションだ。

野島の右足までもが俺のガードの足を超え、完全に横に回られるとサイドポジションと呼ばれる。こうなるとかなり下になっている俺は不利だ。

残っている野島の左足を俺は両足で必死に挟む。そして両腕を野島の身体の後ろに回し、身体を密着させる。とにかく身体同士の距離を空けてしまうと、パウンドが飛んくるし、極め技の隙も与えることになる。


「おいおい、必死だな。でもそっからどうするんだよ、少年?」


(くそ!)


野島の言う通りだった。

致命的なダメージを負わないための防御をしている俺だが、ここから展開を作り状況を好転させるにはこれだけではダメだ。スパーリングや試合ならレフェリーの介入によって状況は変わるだろうが、このままでは状況を変えられないしスタミナを消耗してゆくだけだ。




だがその時、不意に場がざわめいたような感覚がした。


「んだてめぇ!」「ここはおっさんの来る場所じゃねえぞ!」「出てけよ、オラぁ!」


野島も一瞬だけその変化に気を取られたのが、密着している俺にははっきりとわかった。

野島のプレッシャーが一瞬弛んだ瞬間、俺は最大限の力で背中をブリッジして野島の身体との間に空間を作る。その隙間に左足を入れエビの要領で野島の身体を突き放すと、強引に俺は立ちあがった。


「保君!」


俺を呼ぶその声には聞き覚えがあった。最近ではほぼ毎日、家族よりも頻繁に聞く声だった。

俺に突き放され立ち上がった野島もその声を聞いてピンと来たようだった。


「……おやおや、これはこれは……森田紋次郎師範ではございませんか。お久しぶりです」


「……野島君か。久しぶりだな……」


師範は野島の姿を見てもさして驚く様子はなく、しんみりとした声で呟いた。




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