カンカンカン……!
試合終了のゴングが鳴ったが俺には現実感がまるでなく、すべてが夢の中の出来事のような気がした。
「田村君、ありがとうございました! いやぁ、田村君の打撃マジやりづらかったっす! 全然タックル入れなくって焦ったっすよ!……え、MMAはいつからやってるんすか?」
「……こちらこそ、ありがとうございました! いやぁボクの完敗ですよ! ボクは夏休みごろから始めたんでまだ半年も経ってないですね」
試合終了後、大兼君がリング上でそのまま声をかけてきてくれた。
俺としては敗戦のショックでとにかく一刻も早くリング上から去りたかったが、もちろん声をかけてきてくれた大兼君の気持ちを無下にはできない。この場合はどこか現実感がないフワフワした感覚が逆に功を奏したというか、自分でない誰かが大兼君と話しているみたいだった。
「え、マジっすか、絶対才能あるっすよ! 良かったら今度一緒に練習しません?」
「あ、ホントですか。ぜひぜひお願いします!」
リングを下りてからも少し大兼君とやり取りしたが、思い返してみるとほとんど何を話したかは覚えてはいなかった。何となく色々と褒めてくれたようだったが、どれだけ褒めてくれても勝った側の社交辞令というか「どれだけ褒めたって、そんな俺にアンタは一本勝ちしてんじゃん」と思ってしまったのは単に俺の性格が捻くれているせいだろうか?
「良い試合だったわよ……」
控室に戻ると
「ちょ、タオルでやめてよ! ほら!」
「ああ、ごめんごめん、つい!」
すずがしかめっ面でティッシュを放り投げる。これ以上しんみりと慰められるようなことだけは勘弁して欲しかったので、これで良い。
白いタオルを俺の鼻血が赤黒く染めていた。ヘッドギアをしていても殴られれば鼻血くらいは出るし、頬も目の周りもボコボコと腫れていたし全身がとにかく痛かった。
それくらいのことを俺たちは本気でやったのだな……と不思議な感慨が湧いてきた。憎くもない初対面の相手と本気で殴り合って、取っ組み合って、首を絞めるのだ。バカげていると思うのが普通の感覚だろう。
運営に手続きに行っていた師範が控室に戻って来た。
「……保君、おじさんも何度も試合に負けてきた。だから、こんな時に何を言ってもある意味素直に受け取れないのは承知している。でもね……本当に素晴らしい試合だったよ。保君の覚悟と勇気を見せてもらった」
「…………いやぁ、師範! こちらこそホントありがとうございました! 師範の指導のおかげでなんとか1勝できました。2試合目は全然ダメでしたけどね! まあ、でも、ヒョロガリのクソ陰キャが半年弱でやってきたものとしてはまあまあ良かったんじゃないですかね? あ、ちょっとすいませんトイレ行ってきます。試合後に水飲みすぎちゃったかなぁ~」
(……クソ、クソ、クソ!)
Tシャツを引っかぶりながら控室を出て、トイレに他に誰もいないことを確認すると、個室のカギを閉め俺は壁を叩いた。古い市民体育館のトイレはアンモニア臭が染み付いていて、でもそれが不思議と気持ちを落ち着かせた。
あのまますずと師範に優しい労いの言葉を掛け続けられるのは、正直キツかった。
(……本当に勝てなかったのか?)
頭に浮かんでくるのはそのことばかりだ。大兼君の最大の武器がタックルだなんてことは試合が始まる前からわかり切っていたことじゃないのか? 倒されないために、そして倒されてしまったとしてもそこからの戦い方をずっと練習してきたのに……試合中肝心な時に練習通りには身体が動かなかった。
もう一度やり直させてくれれば完璧に対処してみせるんだけどなぁ。ほんの数十分前に戻ってやり直すこともできないなんて、本当に人生ってやつはクソゲーだ。
「あ、血尿とかは出てなかったので大丈夫です」
トイレから戻った俺は空元気を振り絞って師範に伝える。
ボディにパンチを受けると内臓を損傷して血尿が出たりすることがあると聞いていたので、ともかく師範に異状ないことを告げる。
「……そっか、とりあえずしばらくは気を付けた方が良い。頭の痛みなんかも続くようだったらすぐ病院行くんだよ? どうする、一応大会は観ていくかい? 映像で後日観るってこともできるけど……」
「……そりゃあ観ていきますよ! せっかくタダなんですし観なきゃ損でしょう!」
俺は敗退したがトーナメントは当然続いている。今後を考えるならば同世代のライバルたちの試合は少しでも多く見ておくべきだろう。
もちろん本音を言えば一刻でも早く家に帰って1人になりたかったが。
「……わかった、保君がそう言うのなら今後のために観ていこう」
もちろん試合を見ても何も覚えちゃいなかった。
俺を倒した大兼君だったが、次の準々決勝では判定の末に敗退してしまった。あんなに強かった大兼君が負けてしまうなら、俺なんかは全然この大会のレベルに達していなかったということなのだろう。
(……本当に強い人間は一回の敗戦でこんなにクヨクヨ悩んだりしないのだろうか?)
家に帰りベッドに入ってからも、悔しさばかりが込み上げてきた。そもそも俺みたいな人間が格闘技をやろうと思ったことが間違いなのかもしれない。吉田たちからのイジメを回避できた時点で万々歳で、それ以上格闘技に関わるべきではなかったんじゃないだろうか? この数ヶ月間の努力は無駄だったんじゃないだろうか?
(……まあ良いさ。こんなこと考え続けてもしゃあない! やめやめ!)
いくらでもネガティブなことが浮かんできて、死にたくなりそうだったので俺は意識的に気持ちを切り替えることにした。
「保君。ここ最近は試合に向けてずっと頑張ってきたからね、少し休むといい。プロ選手だって試合後のオフはしっかりと取るものさ。とりあえず今週はジムに来るのは禁止だ!」
師範には別れ際そう告げられたことを思い出した。
敗戦したとはいえ大事な試合をケガなく無事終えられたのだ。ともかく一区切りだ。大事な大事なテストが終わったような感覚もある。師範の公認で休めるのだ。しばらくはゆっくり羽根を伸ばそう!
ピロン!
不意にスマホが鳴った。見るとすずからのメールだった。
「今日は本当にお疲れ様。そばで見ているだけの私が何を言っても部外者でしかないのかもしれないけど、保君のここ最近の頑張りには私も本当に感動したっていうか……………………」
メールは長文で続いていたが今はちょっと読むのがしんどかった。スマホを枕元に投げてベッドに再び寝転がる。
(やめやめ、今は休む! でも……休みの時って何してたんだっけ?)
道場に通い始める前はずっとダラダラ過ごしていたはずだが、その時の感覚を俺はもう忘れてしまったようだ。