遂にその日が来てしまった。ダンクラスユースカップ初戦の日である。ここは隣の市にある市民体育館だ。
「あ、保君。大丈夫? 緊張してる?」
控室から廊下に出たところですずが合流した。むしろ俺よりもすずの方が緊張しているように見えた。控室は男子専用だったので、すずはここからの合流となる。
今回のユースカップでは2人までセコンドを付けることができる。師範以外に誰か別のベテラン会員さんに付いてもらうという案も出たが、結局はやはりすずに付いてもらうべきだろうということになった。
すずは相手の能力が数値化できるほど正確に読めるという特殊能力の持ち主だ。分析した情報は試合中すぐに伝えてもらうのが一番だろう。
「大丈夫。さっきまで震えてたんだけどさ、もう吹っ切れた」
すずの見慣れた顔と淡いフローラルの匂いを嗅ぐと、不思議なほど落ち着くことができた。
「赤コーナー! 『キングサリジム』所属、
数百人は入るであろう大きな市民体育館に、安い音響のアナウンスが響き渡る。
もちろんこのユースカップはプロの興業とは異なり、有望な高校生を見つけるという意味合いの強い大会だからアナウンスで過剰に煽ったりはしない。どちらかというと格闘技の試合というよりも部活の大会というような雰囲気だ。
「っしゃいけや、洋二~!」「ぶっ飛ばせ、コノヤロー!」「秒殺だろ? おい!」
……どうやらそうでもなさそうだった。相手選手の名前が呼ばれた途端、ガラの悪い声が一際大きく響いた。
(うっわ! 悪そうだな……)
その声に応えて両手を上げていたのが相手選手の高松洋二君ということになる。
ブリーチし過ぎて白に近い金の短髪、眉毛は糸のように細く、鋭い眼光が俺を睨んでいた。
もう見るからにヤンキーそのものという風貌だ。……ってかあれホントに高校生か? どうなってんだよ、校則は!
だが幸か不幸か俺も吉田たちと接する中でヤンキーに慣れ、相手の風貌だけで過剰にビビることはなくなっていた。
「青コーナー! 『FIGHTING KITTEN』ジム所属、田村保君!」
俺も名前が呼ばれたので、何となく儀礼的に客席に向けて手を振る。
「おっしゃ、勝てよ保~!」「負けたら許さねえぞ!」「一高魂を見せたれや!」
……だが意外なことに俺の方にも野太い歓声が飛んできた。
声のした方を見渡すと……そこには吉田たちヤンキー軍団がいた! さらに少し離れて平本さんと何人かのジムの会員さんも手を振ってくれているのが目に入った。
「んだよ、クソ雑魚の陰キャじゃねえかよ!」「ワンパンで倒せよ、洋二!」
高松君を応援するヤンキーたちからは俺を見下したようなヤジも飛んできた。
「あれ? でもこうして見ると保の野郎、言うほどクソ雑魚の陰キャって感じでもないような……」
「な! なんつーか、ちょっとゴツくなってるよな?」
「ヒョロガリに見えて、キレると保は強ぇえからな……」
相手の過激な応援に対して比較的大人しい我がヤンキー軍団だったが、ボスである吉田がその様子を見て一喝する。
「おいお前ら、こんなとこでゴチョゴチョ言ってても意味ねえんだよ! 今俺たちにできることは保を応援することだろうが! 向こうのボケカスどもに俺らが勢いで負けてたら、保もやりにくいに決まってんだろうが! 気合入れろや!」
ボスの一喝に配下のヤンキーたちも目の色を変える。
「やっちまえ、保!」「そんな見た目だけのクソヤンキー、お前なら一撃だろ!」「ぶっ倒したれや!」
……試合開始前にヤンキー同士の代理戦争となりかねない様子を見て会場スタッフが飛んできた。「これ以上余計なヤジを飛ばし、他のお客さんの迷惑になるようなら即刻つまみ出すぞ!」ということが告げられ、ようやく両者とも大人しくなった。
スタッフといっても単なるバイトではなく『ダンクラス』の関係者……間違いなく格闘技経験者であることは対面しただけでわかる……の雰囲気にヤンキーたちも即刻力関係を理解して大人しくなる様は流石と言えよう。
「大丈夫だ、保君。練習通りやれば勝てるぞ」
いよいよ試合開始だ。師範の声に俺も頷く。
「そうね、彼のウォームアップの動きを少し見ていたけれど、保君の方が強いわ。作戦どおり戦えば問題なく勝てる相手だと思うわ」
すずの声に俺はもう一度大きく頷く。
でも俺は内心不安だった。すずが本当に本当のことを俺に伝えるだろうか? 気を遣って言っているだけではないのか? 仮に相手の方が強かったとしても「相手は強いから今の保君では多分勝てないわ」と言うとは思えなかったからだ。
「両選手中央へ!」
レフェリーからの呼び出しで相手選手の高松君とリング中央で向き合う。
「サミング(目潰し)、ローブロー(金的への攻撃)、後頭部への打撃、それからグラウンド状態での頭部への蹴りは禁止だ。良いね? それから危険だと判断した場合、動きが止まったと判断した場合もストップをかけるからね? クリーンファイトで! じゃあ握手して!」
いかにも屈強そうな体格をしたレフェリーに促されるまま俺は高松君に手を差し出したが、高松君は手を出す替わりに俺を一瞥してニヤリと笑っただけだった。間近で見ると三白眼の上目遣いが蛇のような陰湿な印象を与える。
「……10秒で殺してやるからな。オタクがよぉ……」
「ちょっと君! ケンカじゃないんだぞ!」
暴言を吐いてきた高松君にすぐさまレフェリーから注意が入る。
「あ、聞こえてたんすか? すんませ~ん! 反省してま~す!」
白々しく高松君はぺろりと舌を出して、誠意の欠片もない謝罪をレフェリーに対して行った。
レフェリーはさらに注意をしたが、それに対しても軽くペコペコとしているだけで、当の俺に対する謝罪は一切なかった。
カーン!
……なんだかドタバタとした雰囲気のまま、俺のMMAデビュー戦のゴングが鳴ってしまった。
「っしゃ、オラぁ!」
すぐさま高松君がものすごい勢いで突っ込んで来る。
師範からは「試合といえども普段のスパーリングと同様にグローブタッチをしてから試合開始をするのがマナーだ!」と教わっていたから、俺はかなり面食らった。
「保君、真っ直ぐ下がらない! 回るんだ!」
師範からすぐさま指示の声が飛んで来る。
驚いた俺は反射的にガードを上げたまま後ろに下がったが、それがさらに高松君を調子付かせたようだ。左右の大振りのフックを振り回しながらどんどんと距離を詰めてくる。
「しゃあ行け、洋二!」「ぶっ倒せ、オラぁ!」
向こうの応援の声でさらに高松君が調子に乗っているのがわかる。
だがその時には俺も冷静さを取り戻していた。高松君の大振りのフックに合わせて上体を素早く落とし、前に出ている左足にタックルを合わせたのだ。
「……なっ!」
タックルが来るという発想を完全に忘れていたのだろう。高松君は驚きの声を上げた。
完全にカウンターのタイミングで入った俺のタックルに、高松君の反応は遅れ身体が宙に浮く。そのまま俺は足を前に送りテイクダウンを取った。
高松君は倒されながらも必死に両足で俺の身体を挟む……いわゆるガードポジションをとってきたが、その対応はかなり必死でぎこちないものに思えた。
(……ああ、なんだ、俺よりも向こうの方が緊張してるんだな)
「立て、洋二!」「すぐ立てるぞ!」
高松君陣営のセコンドからも焦ったような声が飛んで来る。
それに応え必死で俺の身体を制御しようと全力を使っている高松君の表情を見て、俺は少し安堵の気持ちを覚えた。
そりゃあそうだ。俺だって初試合だから死ぬほど緊張していたが、高松君も恐らく初試合、しかも恐らくMMA歴もあまり長くはないだろう。もしかしたら俺よりも短いくらいのキャリアかもしれない。
そうした不安を隠すために試合前の挑発や強気な態度をあえて作ってきたのだろう。俺にはそう思えた。