「お、保君、まだやってたんだ。最近気合入ってるね~」
柔術のクラスが終わった金曜日の夜、その後も残って師範とドリル(基礎的なテクニックの反復練習)をしていると、平本さんが話しかけてきた。
「あ、平本さん。お疲れ様です……」
未だに平本さんに対しては少し苦手意識があった。
「え、何? 試合でも出るの?」
俺に向けた微笑みも、もしかしたら俺のことを内心小馬鹿にしているのではないかと邪推してしまう。
「あ、えっと、実はそうなんですよ……」
だが俺の返事を聞いて平本さんの目の色が変わった。
「マジで!? そっか、そっか、保君毎日頑張ってるもんなぁ~。若いってのは素晴らしいよ。今のうちに絶対挑戦しておいた方が良いって! 俺みたいに年取ってからじゃどうしてもできないことは出てくるからなぁ。……って、昔を懐かしむようになったらオレも
「あ……はい! ありがとうございます!」
今まではずっと平本さんに軽く見られているような気がしていた。
高1のヒョロガリのガキが格闘技なんかやっても、俺みたいな元から強い人間には勝てないんだよ……と言外に言われているような気がした(もちろん俺の考えすぎに決まっているのだが)。ヤンキー上がりの人は大人になってもずっと俺たちみたいな陰キャを見下しているのだと思っていた。
でもそんなことなくて、平本さんも俺のことを同じジムの仲間として見てくれているのだ。純粋に応援してくれているのだ……ということが伝わってきてとても嬉しかった。
これだけでもジムに入って練習してきたこの数か月間が少し報われたような気がした。
俺が試合に出場するつもりだ、ということは瞬く間に狭いジム内に広まっていった。
会う人会う人に「試合出るんだって? スゴイよ! 頑張ってね~」と言われた。
別に試合に出るくらい手続きをすれば誰でもできるんだからスゴいわけないだろ! 勝って初めて褒められるに値するもんだろ! ……と思っていたが、話を聞いていくとまあそんな簡単なものでもないらしい。
やっぱりハッキリと勝ち負けがつく場所に出る、というのは中々勇気のいることのようだ。ジム歴の長い人でも試合に出たことのある人はほとんどいなかった。
そもそも大人になってからジムに入った人は、別にプロ格闘家になろうというつもりもなくて、単に趣味や体力作りで通っている人がほとんどなわけだ。そういう意味ではまだ高校生のうちに格闘技に出会えた俺はそれだけ幸運だったのかもしれない。
しかし試合に出たことがないといってもほとんどの会員さんは歴も長く、おじさんでも主婦の人でも俺より技術のある人がほとんどだ。少し動きを見ていれば何となくの技量は俺にもわかるようになってきた。
「あのさ……吉田の時みたいに会員さんたちとスパーリングして能力をもらえないの?」
一度やまとに尋ねてみたことがある。
相手の能力を盗む(コピーする能力)能力を、せっかくやまとを通じて得たのだから、そうやって生かさなければ損じゃないかよ! ……と思ってのことだ。
「痴れ者か、小僧。そんなわけにはいかぬわ」
だがやまとは俺の問いを一笑に付した。
「何でだよ、ケチ! せっかく能力を与えてくれたってのに、まだ吉田から奪った『大食』のスキルしか身に付いてないんだぞ、コッチは! 氏神様がそんなケチだから花田神社もお客さんが減ったんじゃないのかよ!」
売り言葉に買い言葉でついそんなことを俺も言ってしまったが、やまとはさして腹を立てる様子でもなかった。
「阿呆、小僧。あの太った悪童との決闘の時はな、お前もあの悪童もそれだけ真剣じゃった。命を賭すほどの真剣勝負でなければワシも力は貸せんし、あの場で発生する
「なんだよ、ケチ猫~」
まあもちろん俺もそこまで本気で期待していたわけでもない。やまとに頼らずとも今は充分だ。地道に練習したことが自分に身に付いていっているという実感ほど嬉しいものはない。
まだまだやまとの力を借りる段階には無さそうだった。
「おい、保……ちょっとツラ貸せよ」
2学期も終盤に差し掛かった12月のある日のことだった。また例によって吉田の手下のヤンキーの1人に声をかけられた。
声をかけてきたヤンキーと俺を、クラスの皆が何となく注視している。
以前はヤンキーとはなるべく関わらないように、厄介ごとに巻き込まれないように……とヤンキーたちの動向を見ても見ないふりをするクラスメイトがほとんどだったが、不思議なもので俺が格闘技をしているということが広まってからは皆俺のことを良くも悪くも注目しているような気がする。
「あ、あのさ! 田村君はもうキミみたいな人とは関わらないからね!」
俺が返事をする前に、なぜか隣の大塚君がヤンキーに向かってそう宣言してしまった。
「……なんだテメェ、殺すぞ」
打って変わってヤンキーが大塚君に対して目を剝く。彼らにとって一般生徒にナメられるというのはかなり沽券に関わることだ。俺は慌てて間に入った。
「あ、わかったわかった。吉田君のところに行けば良いのかな?」
「ちょ待てよ保! お前のことよりもそっちのヤツがな……」
「良いから良いから、屋上かな~」
なおもヤンキーは目を剝いていたが、俺は強引にヤンキーの手を取って屋上にこちらから先導して向かっていった。
「もう、何だよ~、わざわざ呼び出してさ~」
俺は極めて平常心を装いながら吉田と向かい合った。
吉田たちと接するのに慣れてきたとはいえ警戒心はまだ残っている。一度吉田にケンカに勝ったとはいえ、万が一複数人で同時にかかって来られたりしたらどうしようもない。
というか今は絶対にケンカなんかするわけにはいかない。そんなことになったら試合に出ることは当然できなくなるだろうし、最悪ジムも辞めさせられるかもしれない。せっかく努力してきたこの数か月間がムダになってしまうのだ。
吉田がギロリと俺を睨む。普段のスパーリングでは味わうことのない雰囲気を久しぶりに感じ、俺の背中を冷たい汗が伝った。
「保よぉ……お前、格闘技の試合に出るって、マジか?」
「あ、へ……ああ。うん。一応そのつもりだけど……」
「マジか!」「マジかよ、保!」「保のクセに、ヤベェな!」
まさかそんなこと尋ねられると思っていなかった俺の返事は、気の抜けたようなものだったと思う。だがその一言に集まったヤンキーたちがなぜか沸く。
「なんだ、テメェ。俺を倒して調子乗ってんのか?」
吉田が真顔で俺に尋ねる。
「いやいや、そんなんじゃないから! 吉田君との時だってまぐれだったことはわかってるし……っていうか今も一般の会員さんとの練習してて自分が強いなんて思えないよ! でもさ……練習してると自分が変わっていくのが楽しいんだよ。どれぐらい自分が強くなったのか試してみたい、っていうだけだよ」
俺の反論を聞いても吉田は渋い顔を崩さなかった。
「ケンカにまぐれなんかねえよ。保、お前は自分のことを軽く見積もり過ぎだ。……お前がキレた時のプレッシャーは俺が今までやり合ってきたどのヤンキーよりも強かったぜ。あの時は、正直言って俺もビビった」
吉田の意外な一言に、つんのめるような気持ちだった。まさか吉田に励まされるとは思っていなかった。
「……え、ってか吉田君はボクが試合に出るってことを誰から聞いたの?」
話題を変えたくてふと俺はそのことを尋ねてみた。
まあクラスの誰かの話を小耳に挟んだのだろう、と思っていたが吉田の返答は意外なものだった。
「ああ、平本さんだよ。こないだ先輩たちとの集まりで久しぶりに会ってな。その時保の話も聞かされたんだよ」
意外なところで人間関係が繋がっていることにも驚きもしたし、ヤンキー社会の結束の強さというものも感じた。
「まあ、わかったぜ、保。……呼び出して悪かったな。試合、頑張れよな」
吉田は本当に俺が試合に出るかを確認したかっただけらしく、あっさりと俺を解放してくれた。最後の吉田の声はどこか寂しそうにも聞こえた。