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第10話 決着

「エビだよ、エビ! 立つんだって!!!」


森田すずの声だった。

その瞬間に思考が巡るよりも速く俺の身体は反射し、横向きになり吉田の身体を蹴って距離を取っていた。

想定外の俺の動きに吉田が戸惑った瞬間、俺は後方に足を付き強引に立ち上がった。土の地面にこすり付けられた背中はヒリヒリと痛んだが、そんなものは目の前の吉田の恐怖に比べれば無いも同然だ。

エビというのは寝技の基本的な動き……らしい。紋次郎師範との練習の時に理由も効果もわからぬまま何回もやらされた動きだ。

片方の足を地面につけて、地面を蹴るようにして身体を後方にずらす動きで、エビのように身体を丸めることからそう呼ばれているらしい。


圧倒的不利な状況を俺が覆すことができたのは、森田すずの声のおかげだった。すずの声がなければあのまま俺は吉田にボコられていただろう。


「おい、女ぁ! てめぇ何助言してんだよ! 殺すぞ!」「男のタイマンに水を差すんじゃねえぞ、このアマ!」「てめぇも同罪だ。タダじゃ済まねえからな!」


物陰で見ていたはずの彼女は俺の劣勢に我慢ができなくなったのか、飛び出してきて俺に声をかけてしまっていた。当然ヤンキーたちはそれに声を荒げすずを取り囲んだ。

いつもは無表情なすずも流石に顔が青ざめているように見えた。


「黙れ、お前ら!!! 余計なことすんじゃねえぞ! ……良いんだよこれで。俺が保ごときに負けるわけねえだろ? それくらいのハンデはくれてやるよ。それともあれか? お前らはたかが女のアドバイス一言で俺が負けるとでも思ってんのかよ? なあ? ……なあって!!!」


それに反応したのは俺ではなく吉田の方が先だった。

吉田が血走った目で手下の雑魚ヤンキーたちを睨む。目は怒りに満ちているのに口元は笑っているのがアンバランスで、とても普通の精神状態には見えなかった。


(良いぜ……良いぜ、とことんやろうじゃねえかよ!)


吉田の表情を目の当たりにした瞬間、俺も身震いするような興奮を覚え、一瞬にして弱気が吹き飛んだ。

バカ言ってんじゃねえよ、さっきまでの俺!

ヤンキーたちから理不尽な暴力を受けた俺が間違ってたわけがねえだろ! 間違っているのはヤツらに決まっている。理不尽に対しては死んでも抗(あらが)えよ!


なぜか一気にふっと呼吸が楽になり、足が軽くなった気がした。さっきまで吉田の巨体を一手に引き受けて疲労困憊だったはずの両腕もきちんと俺の統制下に戻ってきたように思う。

もう一度俺は自分から仕掛けるため吉田に向かっていく。

最初はジャブだ。だが距離が遠い。吉田の顔面までは50センチ以上あろうかという場所に放たれたジャブは最初からフェイントだ。さらに半歩を踏み込み右ストレートを放つ。

だが心とは裏腹に身体の疲労は正直だ。

踏み込んだ軸足の膝が流れる。握り込んだ拳も握力が怪しくなってきた。拳を守るためにしている手袋のせいで熱を余計に溜め込み、汗が止まらなくなってきた。額から滴る汗が目に入ってきて思わず目を閉じる。


(搔き乱せ、とにかく攪乱しろ!)


だが今集中を切らせば、そこに待っているのは敗北だ。俺は気合で沁みる目を開く。

吉田も先ほどの攻防で疲れているだろうが、どう考えても俺の方が疲れている。それでも俺は自分から仕掛けるしかないのだ。

ジャブに次いで放った右ストレートも吉田の顔面には届かなかった。俺がステップインするのと同じ分だけ吉田も後方に逃げているからだ。そして反撃のタイミングを狙っているはずだ。


(息が……キツい! でも、まだだ!)


俺の身体はかなり悲鳴を上げていた。肺も心臓も休むことを激しく主張していたし、脚も腕もとっくにパンパンだった。

対する吉田の表情も険しくなってはいるが、それは疲労というよりも仕留められると思っていたタイミングを逃したことによるのだろう。

俺は身体を軽く沈みこませて今度はタックルの体勢に移行する。追撃でキックに行かなかったのは蹴り足を取られてまた転ばせられるのを警戒したからだ。

だが俺の動きに吉田も素早く反応していた。足を大きく後方に引き、タックルを切る体勢を取った。


しかしその瞬間、俺の身体は俺の思いもよらぬ動きをした。タックルのために沈み込み左足に大きく乗っていた重心を再び後方に引き戻し、それに乗せてパンチを放ったのだ。

右アッパー。上体を軽く戻したくらいの小さな振りのパンチだ。遠くから見ていた雑魚ヤンキーたちには俺が何をしたのかわからないほどだったかもしれない。

もちろん何度かアッパーの練習はしてみたが、狙っていた動きではなかった。


カツン。

手応えは小さなものだった。

タックルを切るために上体を下げていた吉田の顔にかすったのか? ……という程度の手応えしか俺自身は感じなかった。

だがその瞬間、吉田は糸の切れた人形のように地面にストンと落ち、力なく尻餅をついた。


なぜこんな風になったのかは理解出来なかったが、ともかく俺は反射的に追撃の体勢を取った。

倒れた吉田の上体に向かって足裏で蹴りを出す。顔面を狙ったその蹴りはヒットせず、胸のあたりに当たっただけだが吉田は背中を地面に付けた。

仰向けに倒れた吉田の身体に俺は馬乗りになった。


(ここだ、ここで仕留めないと!!)


とにかくもう一度立たせてしまってはダメだ。この絶好の機会に勝負を決めてしまわなくては!

もう一度立ち上がってからの勝負になったら、ブン投げられてボコられる可能性の方が圧倒的に大きいのだ。

無我夢中で自分の下で身体を投げ出している吉田に向かって、俺はパンチを放った。




「……もういいって! ストップ!」


夢中で吉田を殴り続けていた俺は不意に後ろから突き飛ばされた。

どこかで嗅いだ覚えのあるフローラルの香りがした。気付くと俺も吉田の隣に寝転がっていた。

目の前に森田すずの顔があった。漆黒の瞳が俺を見つめていた。こんなに真剣な視線を正面から浴びたことが今まであっただろうか。


「もういいって……。勝負あり。キミの勝ちだよ。パウンドによるTKO勝ちだね」


そう言うとすずは、寝転がったままの俺の右手を高く掲げてくれた。どうやらこの闘いの勝利者であることを示してくれているようだ。

雑魚ヤンキーたちも呆気に取られていたが、すずの介入によって急に目を覚ましたように吉田のもとに駆け寄っていった。

吉田は手下のヤンキーたちが駆け寄ってきても未だ地面に寝転がったままだった。呆然とした表情ではあったが、意識ははっきりしている様子だった。


「……ボクが、勝ったの?」


イマイチ俺は状況が飲み込めていなかった。俺があの吉田に勝つなんてことが本当に起きたのだろうか?


「そうだよ。キミの勝ち。まあ私は最初からキミが勝つと思っていたけどね」


「……それだ。なぜ森田さんはボクの方が強い、なんて言ったの?」


吉田がブチ切れるきっかけを作ったのは彼女の一言だったことを思い出した。


「なぜ? と聞かれてもそうだから……としか答えようがないのだけれど。リーチ差が10センチ以上、ボクシングテクニックとフットワークにおいては2レベルくらいキミの方が上回っているのが私には見えていたから。もちろんテイクダウン能力に関しては彼の方が上回っているけれど……でも彼はお友達がキミに一度投げられているのを見てかなり警戒していたわ。そのせいでテイクダウンも中途半端な形になっていたわ」


「……え、森田さん、やっぱり詳しいんじゃないかよ……」


急に専門的な話をし出した彼女の言葉は俺にはほとんど理解出来なかったが、まあ彼女が俺の勝利を確信していたということは伝わってきた。

安堵感と解放感が一気に広がってきて身体の力が一気に抜けてゆく。

思わず俺も地面に寝転がると、7月の過剰に青い空が久しぶりに目に入った。


「でも私はキミの心の状態までは読めないから、その点では少し不安もあった。……でもキミはちゃんとやり切った。誰にも教わらず自分で戦略をしっかり立てて動いた。それにブチ切れた時の集中力はすごかった。……プロ選手でもあれだけの集中力を持ってる人は少ないと思う。……ねえ、田村君。キミ本気で格闘技やってみない?」


「……格闘技? ボクが?」


まあ格闘技がどんなものなのかは正直イメージできなかったが、今の気分はとても良かった。試合に出て勝ったりしたら、もう一度こんな気分が味わえるのだろうか?

だとしたらそんな道もアリなのかもしれない。




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