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第8話 決戦開始

それからの1週間はとても短く、とても長かった。

少なくとも俺が今まで過ごしてきたどの期間とも違っていた。転校先の学校に初めて登校した時も、高校受験の時もそれなりに緊張したことはもちろん何度かあったが、そんな時とは全く種類の違う緊張だ。

吉田に負けたら……それも今まで一度もやったことのない本気のケンカで負けたら、俺はどうなってしまうのか……想像も付かないような事態が待っているのではないか……その恐怖が消えることはなかった。

夜中に目が覚めて眠れなくなることが何度もあった。というかほぼ毎日そうだった。

だがそれでも俺は毎日登校するとともに、自ら決めたトレーニングのルーティンを崩すことはなかった。吉田に負けたくないという気持ちが強かったのもあるが、単に性格的な部分が大きかっただろう。俺は人から言われたことをやるのは苦手だったが、自分で決めたことを続けるのは得意な方だった。


「保、てめぇ、逃げんじゃねえぞ……てめぇがイモ引いたら、死ぬほど追い込みかけっからな!」

「……おい、やめとけって! 余計なことやったらお前が佳友クンにボコられっぞ!」

「ち! ……わぁったよ! 行くぞ、オラ!」


一度だけ雑魚ヤンキーたちに絡まれた。

ボスである吉田に止められていたはずだが、それを振り切って絡んでくるほどにヤツら自身も俺に腹を立てていたということだ。

それでも彼ら同士の抑止力が強く働いているのは少々不思議な感じもした。どうもヤンキーというのは俺が思っていたよりもずっと社会的な存在のようだ。




「よお、保~! 久しぶりだなぁ! 逃げずに来てくれて嬉しいぜ、俺は!」


こうして吉田と面と向かい合うのは、ヤツがタイマンを申し込んできてからちょうど1週間ぶりだった。

あれ以降ヤンキーたちは流石に直接的には接触して来なかった。

もちろんヤツらからの過剰な視線は浴びたし、目が合うと挑発的な表情をしてきた。だが今までのような俺を舐めた……単に自分たちのおもちゃを扱うような視線ではなく……明確な敵意を向けてくるのは俺にとっては新鮮な感覚だった。


「じゃあ始めるか、保」


「ああ……」


吉田はニヤリと微笑んだ。俺たちの間に言葉はもう意味をなさない。


「やっちゃって下さい、佳友クン!」「謝るなら今のうちだぞ、保!」「まあ、謝っても許すわけないけどな!」


雑魚ヤンキーたちも律儀に今日もボスのお供として花田神社に来ている。

溜め込んだ鬱憤うっぷんを晴らすかのように盛大にヤジを飛ばしてきていはいるが、ヤツらの間に今までとは違った薄っすらとした緊張感が漂っていることは伝わってくる。こうして吉田がタイマンを張るのは珍しいことなのだろう。


この戦いをどこかに隠れて森田すずも見ているらしい。自分がこの戦いの一因となってしまったという責任感がそうさせるようだ。


「……なぜ私が父に言うと思ったの? この件に関して父には言わないとキミに言ったはずだけれど?」


実はこのタイマンのことを森田紋次郎師範に漏らしているのではないかと思い、軽くカマをかけてみたのだが心底不思議そうな顔をされた。どうも彼女は一般常識というか、ケンカは良くないという普通の倫理観が欠如しているように思える。

まあ本当にヤバい状況になった時のために誰か見届ける人間はいた方が良いだろう。そう思って彼女をこれ以上ムリに遠ざけることはしなかった。


氏神様だと名乗る例の黒猫『やまと』もこの戦いをどこかで見ているらしい。

まあここ花田神社はやまとを祀った神社だというのだから、それも当然かもしれない。それで吉田との戦いに勝ったら俺に「相手の能力を盗む能力」を授けてくれるらしい。

「自分は氏神様だ!」「お前のことが気に入った!」などと猫のくせに言っていたものだから、この戦いにもっと実質的な助けをしてくれるのかと期待していたが……まあ良い。ともかく今は目の前の吉田に勝つしかないのだ。




「行くぞぉ~、保ぅ~!」


吉田が満面の笑みで向かってきた。もうケンカが楽しくて仕方ない、という顔だ。

……ったく、こんなヤツを相手にしなきゃいけないのかよ……。

正面から両手を上げて掴みかかってくる吉田に対して、俺は足を使い右に大きく避けた。


「おらおら、そんな大袈裟に避けてどうすんだよ、今までの特訓の成果が出てないじゃねえかよ、保~!」


吉田の声は明らかに楽しんでいた。すぐさま方向転換して再び向かって来る。


(掴まれたらヤバいな……)


100キロはあろうかという巨体が突進してくるのはそれだけで恐怖だ。そして吉田のあの巨体が持つパワーは俺の身体に刻み込まれていた。

再び突進してきた吉田に対し、俺は再び大きくステップを踏んで右に回避する。


「逃げてばっかじゃ勝てねえだろうが!」「気合を見せんかい! 気合を!」「舐めてんのか、てめえ!」


(外野は黙ってろ! ……とにかく落ち着け! 落ち着きつつも止まるな!)


呪文のように何度も唱えてきた言葉を反芻はんすうする。

まずは吉田の攻撃をもらわないこと。そして距離を取って、できれば吉田を疲れされること。それが俺の最初のプランだった。

不良たちのケンカについて詳しいわけではないが、血の気の多い者同士のケンカは正面からぶつかり合い、一瞬で勝負が決まることが多いのではないだろうか? そう考えた俺はとにかく吉田のリズムを崩したかった。ヤツの不慣れな長期戦に持ち込むことが勝利の第一関門だと考えたのだ。


「ったく、ちょこまかと……鬱陶うっとうしいヤツだな、保よぉ」


吉田の動きが変わった。薄気味悪い笑みは消え、明らかに不機嫌な表情になった。単純に正面から掴みかかるだけでは俺を捕えられない……と見たのだろう。これはつまり俺から見れば、第一関門突破ということだ。


吉田の動きが変わったのを見て、俺も体勢を変えた。

右足を少し引いて半身に構え、両手を軽く握り自分の目の高さに両拳を置いたのだ。


「……なんだよ、保~? その構えは? 何の真似だよ、なぁ~」


吉田が奇異なものを見るように目をパチクリさせた。

その瞬間後ろの雑魚ヤンキーたちから弾けるような笑いが起こった。


「おいおいおい、ボクシングかよ! 手袋じゃグローブにはならねえぞ!」「やめとけって、素人がカッコだけ付けても意味ねえぞ!」「お前、足が震えてんじゃねえかよ! ムリすんな!」


たしかにここまできちんと両手を上げて構えるのは、日常では見ない格好だ。ヤンキー同士のケンカでもこういうヤツは少ないのだろう。

だがどれだけ不格好に見えても、吉田を少しでも戸惑わせることができただけで俺には意味のあることだ。

おまけに俺は両手に黒い冬用の手袋をしていた。特に何の変哲もない防寒用の手袋だ。でも別に形から入ったボクサーの真似事でもなければ、魔力の放出を抑えるというような厨二病を拗らせた妄想でもない。一応俺には俺の考えがあってのことだ。


(……来る!)


俺が構えを変えたのを見て一瞬だけ止まった吉田だったがすぐに動き出した。

今までのように直線的に俺を捕まえにくるのではなく、大きく両手を広げジリジリと小刻みに俺に近付いてくるものにその動きは変わった。

それを見て、震えていた俺の足が止まりきちんと言うことを聞くようになった。


(動け! 今だろ!)


両手を広げた吉田は実際の大きさよりも大きく見えた。柔道経験のあるその構えにはどっしりとした落ち着きがあった。このまま掴まれてすぐにボコボコにやられるんじゃないか……そんなイメージを吹き飛ばし、俺は自分から動いた。


「……グッ」


今までは逃げる専門だった俺のフットワークが、初めて吉田に向かっていく方向に変化した。

やや左前に飛び込みながら打った俺のパンチが吉田の顔面を捉えた。

ジャブ。前手の左拳を真っ直ぐ走らせる最も基本的なパンチだ。

俺のパンチに驚いて体勢を崩した吉田に再び飛び込みもう一度ジャブを当てる。……だが今度は顔面には至らず、吉田のガードの前腕に当たっただけだった。

すぐに顔を上げた吉田と目が合う。その目は明らかな怒りに燃えていた。舐めていた相手に牙をむかれたという尊大な怒りだ。


(……ヤバい!)


吉田が右手を振り回し俺を掴みに来るが、本能的に恐怖を感じた俺は大きくバックステップをして距離を取っていた。


「……やるじゃねえかよ、保。正直舐めてたぜ、お前のこと。今までやってきたヤンキーたちでもお前ほどすばしっこいヤツはいなかったかもなぁ~。……でもな、お前のそのへなちょこパンチが何発当たろうが、俺は倒せねえぞ!」


吉田が再び俺の正面に立ち大きく手を広げた。

反射的に俺は再びステップインして、ヤツの顔面にジャブを放つ。だが今度は吉田の右手に実に簡単にはたき落とされてしまった。


(クソ!)


もう吉田は俺のパンチに目が慣れてしまったのか? ……いや、今のは吉田のタイミングで俺がパンチを打たせられたという感じだった。ヤツが想定するタイミングでパンチが飛んできたのだから、対処も簡単だったのだろう。


(チ! せめてもう2,3発はジャブを入れたかったが……)


結局ヤツの顔面に入ったパンチは最初の1発だけだった。そもそもジャブはどちらかというと牽制のパンチだ。ヤツを驚かせることはできたが実質的なダメージはほとんどないようなものだろう。

対するこちらは今のところノーダメージだが、一度でも掴まれて投げられたらほぼジ・エンドだろう。俺が吉田を倒すには何発も何発もパンチを当てなければならないのに対してだ。

なあ、この勝負、あまりに俺にとって分が悪くねえか?




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