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第6話 氏神様

「……はぁ、はぁ、はぁ……」


肺がオーバーヒートし、太ももと尻の筋肉が千切れそうだった。

翌日土曜日の早朝、俺はボスヤンキー吉田佳友よしだよしともとの決戦のタイマンに向けて、さっそく花田神社の階段を用いたトレーニングを開始していた。

7月の陽射しは早朝6時でもかなり強い。

花田神社の階段は数えてみるとちょうど200段あった。それをダッシュで上るというトレーニングだ。

1本目を上り終えた時は余裕だった。この程度のことでトレーニングになるのだろうか? と思った。そして、そう思えたのはこの時までだった。

2本目。あれ? 早くも自分の異変に気付いた。上り終えた時に呼吸が明らかに荒くなっているのが自分でもわかった。さっきは意識することもなかった鼓動が大きく聞こえる。

いや、まだ3本目だ! すぐに俺はスタートを切った。だがもう1本目のようなスピードはなかった。身体が酸素を切実に欲しているのがわかる。頂上に着くころにはダッシュと呼べるような速さではなくなっていた。

でもやるんだ! 自分で決めたノルマさえも達成できないで吉田に勝てるわけがない。最初のスピードには至らなくともとにかく全力で上るんだ! そうしなければトレーニングにはならない!

だが今度の異変は筋肉に来た。太ももの裏側の部分、それから尻の筋肉がプルプルと痙攣し始めたのだ。こんな経験は初めてだった。




「……はぁ……」


結局5本も上ると俺は階段トレーニング断念せざるを得なかった。気持ちとしてはまだ続けたかったが、痙攣でもう脚に力が入らなくなっていた。根性や気合だけではどうしようもない部分があるということが嫌になるほどわかった。


(……いや、いまは他の練習だ!)


少し休憩をして息を整えると、弱気を振り払うように俺は気持ちを切り替えて次の練習を始めた。

動画サイトを見て研究したパンチやキックの打ち方を反復練習した。おじさんに習った投げられないコツや受け身なども自分で何度も復習した。ポジティブに言えば一度吉田の投げを食らっているのは大きな経験だ。アイツの力がどんなものかは何となくイメージできるからだ。


(でもな、こんなんで良いのかな……)


だけどそれでも不安だった。素人が見よう見まねでやる練習なんて効果があるのだろう? おままごとをしているだけじゃないのか? ふとするとそんな感覚が俺の中に広がってゆくようだった。


(いや、余計なことを考えるんじゃねえよ! 今はとにかくやるんだ!)


それでもやるしかない。森田紋次郎師範……おじさんには頼らないと決めた。今回は俺の力だけで吉田に立ち向かうのだ。

そしてこれは自分を変える良い機会なのだと思う。

勝てるか勝てないかじゃない。やるかやらないか、だ。

子供の頃から転校を繰り返してきた俺だが、今まではどこに行っても中途半端だった。ここ桃林第一高校に来るまでイジメられたことはなかったけど、特に親しい友達も出来ず、情熱をもって何かに打ち込んだこともなかった。

これはそんな自分を変える良いチャンスなんだ!

不安な気持ちが広がってゆきそうになる度、俺は自分にそう言い聞かせた。

そして何よりヤンキーたちの理不尽な暴力に屈してしまうのはもう嫌だった。たとえ俺がズタボロに打ちのめされようとも、せめて吉田に一矢報いたかった。ヤツらがしていることがただの自分勝手な暴力であり、それに対して俺は怒っていたのだ……ということを伝えなくてはいけなかった。




「……そろそろ帰るか」


1時間ちょっと身体を動かした後、俺はそう口に出して自分に確認した。

とりあえずやれることはやったはずだ。

まだ朝の7時過ぎだが陽光は容赦なく照り付けてくる。今日も暑くなることは間違いないだろう。


「……ウォーン……」


不意にそんな声が聞こえた気がして、帰りかけた足を止める。

後ろを振り返り周囲を見渡すが、そこには当然のように何もいなかった。

人の声なのか、何か動物の声なのか、それとも何か他の声なのか(ここは神社なのだから怨霊だとか妖怪の類なのか?)とも一瞬思ったが、すぐに俺はそんなバカげた考えを捨てた。


「……ミューン」


だが再び声がした。今度はさっきよりも明瞭に、もっと近くで聞こえた。

さっきよりもか細く、可愛らしい声のような気がした。


「……ああ」


首を振ってさっきよりも目を向ける場所を増やすと、声の主が見つかった。

俺の頭上、地上3メートルほどで生い茂っているクスノキの太い枝の上に、金色の瞳を見つけたのだ。ソイツと目が合う。


「みゃーん! みゃーん!」


ツヤツヤの被毛で全身を黒光りさせた猫だった。

その周りにスズメが何羽も集まってきていた。猫はちゅんちゅんと迫り来るスズメが怖いのか、枝の先端に徐々に追いやられているようだった。


「……おいで! ほら!」


俺は戯れにそう呼びかけてみた。その子は普通の猫よりも一回り小さく見えるが、まさか猫がスズメより弱いことはないだろう。というかそもそも猫の運動神経ならば、これくらいの高さは大したものではないはずだ。普通に飛び降りても着地に失敗してケガをすることはないだろう。

だけど俺は猫に思わず声をかけていた。虐げられている身としてこの黒猫にどこか自分を重ね合わせていたのかもしれない。


「……ニャ!」


黒猫は一瞬だけ躊躇したが意を決したように俺の腕に飛び込んできた。その姿を見てスズメたちが一際うるさくちゅんちゅんと鳴いた。


「おー、よしよし」


思っていたよりもその黒猫は軽かった。ツヤツヤの黒毛で覆われた背中を撫でながら地面に下ろしてやる。

俺は特別猫が好きだったわけではないけれど、こうして懐かれるとたまらなく可愛く思えてくるものだ。背中を撫でて、頭を撫でて、アゴの下を撫でてやると黒猫はゴロゴロと喉を鳴らし、地面に寝転がってしまった。


「……ったく、お前は初対面だってのに、へそ天までしちゃうのかよ」


撫でている俺の方もかなりリラックスしてくる気がした。猫のツヤツヤでふわふわの黒毛を撫でるのは理屈抜きに気持ち良い。7月の暑さに猫の高い体温は熱かったけど、そんなことどうでもなるくらい癒される気がした。ヤンキーたちとの揉め事でここしばらく張り詰めていた神経が、スッとほどけてゆくようだった。


「さて……また来るからな、元気でいろよ」


だがいつまでも黒猫と戯れているわけにもいかない。そろそろ家に帰ろうとした時、誰かに呼び止められた。低く柔らかい声だった。


「しばし待て、小僧。たしか……保といったか?」


驚いて辺りを見渡したが、誰もいなかった。


「阿呆。ワシだ。目の前におるじゃろうが」


目の前にいるのは……例の黒猫しかいないのだが……。


「じゃからワシじゃと言うておろうが……まったく、鈍いヤツじゃな。左様な鈍さゆえあの悪童どもにも目を付けられるのじゃぞ?」


目の前の黒猫がニヤリと笑った気がした。


「……キミ、猫ちゃん、日本語が、わかるのかい?」


馬鹿げたことを言っていると自分でも思いながら、俺は口にしていた。


「猫ちゃんとはずいぶん気安いな、小僧。……まあ良い。そもそもな、大抵の猫は人間の話す言葉くらいはほとんどわかっておるのだぞ? 猫の方でわざわざ人間どもの言うことを聞いてやる義理もないゆえ、大抵は反応もせんがな。……だがワシはそこいらの猫とは違うでな。こうしてワシの方から小僧の心に直接話しかけることも出来るのじゃよ」


確かに黒猫ちゃんはさっきから口も動かさず、音も発していなかった。だけど確かに俺の心に話しかけてきていた。


「……ワシはこの花田神社の氏神『やまと』だ。もう700年くらい生きておる。まあワシくらい長生きしていると色々と見えてくるものもあるものよ。人間の小僧の心の中とかな」


やまと、と名乗った黒猫は俺の顔を見ると、今度ははっきりと金色の瞳をキラリと輝かせた。




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