(あ、師範の娘だ! たしか名前は……すず!)
俺の後ろに1人の少女が立っていた。それはおじさんとジムで練習した日、帰り際に会ったおじさんの娘だった。
漆黒のようなショートボブ、黒い大きな瞳で彼女はヤンキーたちと俺をキョロキョロと見回していた。知的で端正な風貌をしていたが、どこか眠たげな何を考えているのかよくわからない表情に見えた。
「女ぁ……どういう意味だ?」
一気に沸騰しそうな手下ヤンキーたちの気勢を抑え、吉田が森田すずの前に立った。
それが女子に対するヤンキーとしての矜持なのか、吉田は再びひきつった笑顔をムリヤリ作っていた。
「どういう意味って、言葉通りの意味でしかないのだけれど? なぜあなたよりも強い彼が、あなたに対して謝る必要があるのか、わたしにはまるで理解出来なかったからその理由を知りたかったのだけれど?」
すずは表情一つ変えずに面と向かってそう言い放った。
「……てめぇ、舐めやがって! 女だから殴られないと思って調子乗ってんじゃねえぞ、コラ!」
吉田が憤怒の表情で彼女、森田すずを睨みつける。すぐに手下のヤンキーたちが、すずを取り囲む。
その光景を見た瞬間、俺の中で何かが弾けた。
「やめろよ!! クソどもがよ!!!」
俺自身も聞いたことのない声だった。こんな声が自分の内にあるとは知らなかった。
俺の声にヤンキーたちが声を失っているのが伝わってくる。だが俺はもう自分を止められなかった。
「マジでダサいんだよ、てめえら! てめぇらヤンキーどもは、自分で好き好んで
驚いて固まっている雑魚ヤンキーたちと違い、真っ先に反応を示したのは吉田だった。
「……言うじゃねえかよぉ、保。……そこまで言うなら覚悟は決まってんだろうな? 俺がタイマンで相手してやるよ! お前の言う通り、コイツらの練習台じゃなくてマジでな。その代わり、今利いたクチの代償はたっぷり払ってもらうからな? 歩いて帰れると思うなよ!!」
「…………」
「1週間待ってやる。来週月曜の放課後、ここでタイマンだ。逃げんなよ? 逃げたら二度と学校に来れなくなるくらいに、お前もこの女も追い込みかけるからな? 良いな?」
「…………」
「ちょ、ちょ、何も佳友クンがタイマン張らなくても!」「っていうか佳友クンが保なんかに本気出したら死んじまいますって!」「そうっすよ、この前の西高の番格のヤツだってまだ入院してるっていう話っすよ!?」
雑魚ヤンキーたちの空気がまた一段と張り詰めた。
なぜか俺が暴言を吐いたことよりも、それに対する吉田の反応の方にヤツらは怯えているようだった。ヤツらは吉田の暴力性といつも接しているはずなのに、この慌てっぷりは何だ?
「黙れ!!!」
やんややんやの雑魚ヤンキーたちを吉田は一喝して黙らせた。
「コイツは俺がきちんとケジメをつけてやる。それまでお前らは絶対に手を出すなよ、良いな? ……おい、行くぞお前ら!」
「ちょ佳友クン、マジすか!?」「そりゃないですって!」
雑魚ヤンキーたちは依然として納得いっていない様子だったが、ヤツらは花田神社を後にした。
「どうしたの? 田沼君?」
「ボクは田村だよ、森田さん……。恐怖に震えていることくらい、わかんないかな?」
俺を覗き込んだすずの目は、先ほどまでヤンキーたちに向けていた瞳と全く同じものだった。彼女にとっては俺の今の状態も純粋に疑問なのだろう。
さっき吉田たちに切った啖呵の重さが、今頃になってひしひしと自分に降りかかってくるようだった。思い返すと俺は相当ヒドいことを言っていた。あの瞬間に全員でボコボコにされなかったのが不思議なくらいだ。
だが来週の月曜、タイマンを張ると吉田は言った。……タイマンなんて言葉知らなかったが、まあ要は1対1で俺とケンカをするということなのだろう。今までの遊びの延長とはわけが違うものだということはヤツの雰囲気で察せられた。
そして気になったのは吉田本人よりも手下のヤンキーたちの反応だ。途中からのヤツらは、俺への怒りなどそっちのけで吉田が暴走することを恐れているようだった。西高の番格のヤツの話は、まあ詳細はわからないが、吉田にやられたということなのだろう。
「恐怖? キミが恐怖に震えているの? ……でもそういえばキミ、ウチのジムに体験に来ていたわよね? キミも格闘技がやりたかったのではないの?」
「いや、あれは本当にたまたまで……」
すずに返事をしながら俺の頭はフルスロットルで回転していた。
一瞬おじさん……森田紋次郎師範に相談しようかとも思った。たった一週間でもプロに本気で教えてもらえばかなり違うだろう。だが大人をこんなケンカに巻き込むわけにはいかない。格闘技を真剣にやっている人間ならなおさらだ。
「あらそうなの? てっきり私はキミの方が吉田佳友を相手に、自分の実力を試したくて接触したのかと思っていたわ。ああ見えて彼は中学のころ柔道で市の選抜にもなっていたから、相手としては申し分ないはずよ」
すずは何を考えているかわからない例の表情のまま、俺に対してサムズアップをしてみせる。
……いや、全然グッドじゃないんだが! グッドな要素が一ミリも見当たらない! 吉田が柔道経験者だなんて話は聞いていないのだが! どこをどう見たらそんな風に思えるんだよ!
だが、たしかに吉田が俺を投げた時のキレは他のヤンキーたちとは一段も二段も違った。これ見よがしに投げ技を披露したのも、手下たちに自分のスキルを見せたかったということなのだろう。
……どうやら俺が今まで見てきた吉田佳友はほんの一部でしかないようだ。
「……森田さん。このこと、おじさんには黙っててね」
だがそれよりも俺には気がかりなことがあった。すずが父親に余計なことを言わないか、ということだ。紋次郎師範を今回のことで巻き込むことだけは嫌だった。
「それは、なぜ?」
すずが黒目がちな大きな瞳をパチクリさせる。
「なぜって……おじさんには関係のないことだし、余計な心配をかけるだけだから!っていうか、そもそも森田さんは何でこんな所に来たの?」
それが一番の謎だった。花田神社にはヤンキーたちと頻繁に来ているが、他の人が通りかかるのを今まで一度も見たことはなかった。
「あら、ここはウチの敷地だから当然よ。花田神社はウチが管理しているのよ」
「え? だって森田さんの家はジムをやってるんじゃないの?」
「ジムもこの神社もウチのものなのよ。ウチの母は元々花田神社の家系で、そこに父親が婿に入って10年くらい前にこの麓にジムを開いたのよ。……疑うなら書類を持ってくるけれど?」
どうもこの少女と話しているとペースを乱されるというか、普通の人とはどこかズレているようだ。
「まあそういうわけで、ここ花田神社でそんなことがあるなら、私にはそれを見届ける権利があります。なぜならここはウチの敷地だから。というか彼らは私にも随分と腹を立てていたみたいだし」
「いやだから余計に森田さんが来たら危ないでしょ? ……っていうかそもそもさ、何でボクの方が吉田よりも強いなんて言ったの? 森田さんがあんな事言わなきゃ、ヤツらもあそこまでキレはしなかったのに……」
本気でヤツらをキレさせたのが俺自身の暴言だったことは、今は一旦棚上げさせてもらう。
でもたしかにすずの一言があの流れを生んだのは確かだろう。
「キミも彼らと同じことを訊くのね、田島君」
「……田村だよ。あ、もしかして森田さんも師範の娘だから格闘技やってたとか? 幼少期から英才教育を受けてきたとか?」
俺はすずに尋ね、もしかして彼女に何か技術を教わることが出来るかもしれない……とわずかな希望を持った。彼女は紋次郎師範とは違い、もうすでにこちら側の人間と言ってもいい立場だ。
だが、すずは首を振って俺の問いを否定した。
「私は女子よ? 父親が格闘技をやってるのは見てきたけど、私自身は全然やったこともないわ」
まあ普通に考えて格闘技をやろうという女子は少ないだろう。
すずに頼ることが出来ない以上どうすれば吉田に対抗出来るか、策は俺自身が見出すしかない。
「でも、そういえば……父はよくこの階段を走っていたわ。現役選手の時は子供の私を背負って上っていたこともあったわね」
「……なるほど」
少しヒントが得られた気がした。もちろん詳しい効果はわからないけれど、階段を上るのはたしかにトレーニングになるだろう。
サッカー部も野球部も練習で坂道や階段をダッシュしているのを見たことがある。下半身を鍛えるのはどんなスポーツにも共通するトレーニングなのかもしれない。
とりあえず俺も真似てやってみよう……という気になっていた。
吉田は巨漢だ。身長は俺より少し低い175センチくらいだが恐らく100キロ近い体重だ。そして中学までは柔道をやっており選抜に選ばれるほどの実力があった。この前投げられた時ももの凄いパワーだったが、あれも本気ではなかったのかもしれない。
何よりいきり立った時の周りの雑魚ヤンキーたちの恐怖の表情が、その想像を裏付けているように思えた。
だがそんな恐怖を俺は何とか押さえ付ける。もう戦いを避けることは出来ない段階だ。勝つためにどうするか、今はそのことを考えるしかない。
やはりあのパワーで掴まれたら勝ち目はない。俺が勝つにはフットワークで搔き乱すしかないないだろう。そのために決戦までの1週間をどうすべきかだろうか……。
後から考えれば不思議なことだった。
恐怖を抱きながらも、俺はどうやって吉田に勝つかということだけに集中していた。
普通に考えれば誰かに相談して、吉田とのタイマンなんていう馬鹿げた事態を回避するのが常識的な対応だっただろう。
そんなことは俺の頭からは消え失せており、吉田といかに闘うかに集中し始めていたのだった。