「あの……ボク、お金とか無いですけど……」
ジムに強引に連れ込まれた俺はビビっていた。ヤンキーたちに絡まれるのもウンザリしていたが、
訳のわからない大人とこうして関わらなければいけない状況も同じかそれ以上に嫌だった。
なぜあんな所でボーっと見ていたのか……数分前の自分の行動を悔やんでいた。
「ははは、大丈夫だよ! なにも取って食いやしないし、今日はお金も要らないから! ……あ、そういえば自己紹介がまだだったね。おじさんは
「あ、
慌てて俺も挨拶を返す。これくらいの礼儀は高校生にもなれば出来ている。
「オッケー、保君だね。じゃあ早速だけど保君、総合格闘技については知らないって言ってたよね? 他に何か知ってる格闘技はある?」
「ボクシング……とかですかね?」
「うんうん、ボクシングは世界で最も伝統と人気のある格闘技だね! ボクシングはパンチだけを使った勝負だってのはわかるよね? それに蹴りも加えたのがキックボクシング。さらにそこに関節技や寝技も加えたのが総合格闘技。MMA(Mixed Martial Arts)とも言うんだ」
「……何でもアリってことは、一番強いんですか?」
「ははは、それは難しい質問だね! 例えばMMAのプロがプロボクサーとボクシングで勝負をしたらボクサーの方が勝つだろう。MMA選手ももちろんパンチの練習をするけど、毎日パンチだけを磨いているプロボクサーにはまず勝てない。格闘技はルールありきだからね。……そうそう、MMAもルールがきちんとある。何でもアリとは言ったけど、路上のケンカみたいにホントの何でもアリじゃないんだよ! そんなこと言ったら武器を使うのも、仲間を連れてきて複数人で1人囲むのもアリってことになっちゃうからね」
「ああ、まあ、そうですね」
だがその瞬間、何となく相槌を打った俺に対し紋次郎と名乗ったおじさんはグイっと顔を寄せてきた。
「……っていうのは他の格闘技をやってる人に対する建前でね、実はおじさんはMMAこそが最強の格闘技だと思っているんだよ!」
おじさんの目はギョロリと光っていた。中年のおじさんの目にそれだけ力が入っているのは、正直言ってちょっと怖かった。今まで俺が接したことのある大人……両親だとか先生だとか……とはどこか種類の違う人間の目だと感じた。
そして
格闘技は様々あるし真剣にやっている人も沢山いるだろう。
その中でもこのMMAが最強だ、とおじさんは言う。じゃあこのおじさんに教われば、もしかして俺も最強になれるってことなのだろうか?
もし最強になったらどんな気分だろう? 少なくとも高校のヤンキー程度の人間にイジメられたりはしないだろう。というかヤンキーたちも俺がもし最強になっていたら、中途半端に絡んでくるような馬鹿な真似は出来ないだろう。ヤツらの世界こそ弱肉強食だ。そんなことをしたらやられるのは自分たちの方だってことはヤツらの方が骨身に沁みてわかっているはずだ。
……いや、最強とは言わずそこそこだろうと強くなれば、ヤンキーたちとの接触にストレスを感じることもなくなるのだろうか?
「おっと、ゴメンね! おじさんはMMAのことになると熱くなっちゃうんだよ! えっと……痛くない投げられ方だったね?」
「ああ、そうですね……」
おじさんの言葉に俺も妄想から現実に引き戻される。
下らない妄想をしている場合じゃない。俺が最強になんてなれるわけがない。特に運動神経も良くもなくヒョロガリの俺にそんな素質があるわけがない。現実を見ろ、バカタレが。
「痛くない投げられ方もあるよ、もちろん! MMAは何でもアリだからね。受け身って聞いたことある?」
「柔道、とかですか?」
そう言えば中学の体育の授業で少しだけやった。もうどんな風だったかはほとんど忘れてしまったが。
「そうそう、あの受け身だよ。保君、試しにおじさんを思いっ切り押し倒してみてごらん?」
「え? 思いっ切り?」
「大丈夫、大丈夫!」
紋次郎師範(兼オーナー)は大の字に両手を広げて、俺の前に立った。
まあおじさんは師範なのだから、相当に心得があるのだろう。俺程度のヒョロガリ高校生が思いっ切り押したところで本人の言う通り何ともないのだろう。
俺は言われたとおり渾身の力を込めておじさんを押し倒した。
ビクともしないのかと思っていたが、おじさんはほとんど手応えもないほどあっけなく後ろに倒れていった。
だがおじさんは、スターン! と鮮やかな音を立てて床を叩くと、くるりと後方にでんぐり返りをして、俺の攻撃などなかったように涼しい顔で立ち上がったのだ。
「……スゲ」
おじさんとあまり距離を詰め過ぎるのも嫌だったので、なるべくリアクションをしないつもりだったのだが、鮮やかな身のこなしに思わず声が出てしまった。
「ま、受け身ってのはこんな感じだね」
俺の反応に気を良くしたのか、おじさんは喜びを噛み殺した表情をしていた。
「でも、そんないきなりは……」
だが吉田やヤンキーたちに投げられるのは、おじさんではなく俺なのだ。俺におじさんと同じ今の身のこなしが出来るわけがない。
「ああ、大丈夫だよ。順番を覚えて少しずつ練習していけば必ず身に付くよ。大丈夫!」
そこからおじさん……森田紋次郎という奇妙な人に教えられ、俺はひたすら受け身の練習を始めた。道場の白い床はビニールのマットみたいな素材で、多少転がされても痛くないので練習はしやすかった。むしろ子供の頃のマット運動みたいで楽しかった。
「そうそう! とにかく頭とか背中をまともに地面に打ち付けないようにすることだね。最初は手で大袈裟なくらいマットを叩いた方が良い。それと、受けた力に逆らわないことが一番大事だね。自分がゆらりと舞う枯れ葉になったつもりで力を抜くんだ!」
おじさんの言っている感覚はまだ掴めなかったけれど、前側、後ろ側、横側という三方向への受け身は何となくやり方がわかってきた。
もちろんおじさんは俺を優しく投げる。ヤンキー連中のように俺を倒すために本気で投げるのとは全然違うから、果たしてヤンキーたちに投げられた時にここで練習した受け身が使えるかは少々心許ない。
でも何も知らずに投げられるのとは雲泥の差だろう。
「ちょっと休憩するかい?」
気付くと20分ほどが経っていた。高校の制服ズボンにTシャツ姿だったのだが、Tシャツには汗がびっしょりと滲んでいた。久しぶりに感じる気持ちの良い汗だった。
道場の隅で壁にもたれていると、おじさんがウォーターサーバーから水を持ってきてくれた。
「保君、でもね、受け身だけじゃなくて痛くなくなる方法は他にもあるんだよ」
「……知りたいです。教えてください」
俺はすでに完全におじさんのペースに呑まれていた。受け身の練習なんていう地味な反復練習も楽しくなってきてしまっていた。おじさんの提供する何か新しい技術があるのなら少しでも知って体験してみたかった。
「簡単だよ。投げられなければ良いんだよ。っていうかむしろ相手を投げちゃった方が簡単だ」
「投げられない、ですか……」
まあそれが出来るなら一番良い、のだろうか?
でも投げられるのに抵抗なんかしたら、逆上してヤツらは余計に躍起になってくるんじゃないのか……という気もしたが、とりあえずその技術は知って体験してみたかった。
「まず基本なのは相手となるべく身体を離す、ってことかな。投げる側は相手の身体をなるべく自分に密着させた方が投げやすいんだ」
「はあ……」
おじさんの話はちょっと専門的でイマイチわからなかった。
「え~っとね、ゴミ捨てと一緒なんだよ」
「……ゴミ捨て?」
余計にわからなくなりそうだった。
「ああ、うんとね、ゴミ袋を持つ時って屈むだろう? その時自分から離れたところにあるゴミ袋を持とうとして屈むと腰を痛めることがある。そうじゃなくて、ゴミ袋を自分の真下に置いて真っ直ぐしゃがむようにして持ち上げると楽に持ち上がる。自分に近いところに対象を置いた方が身体全体の力を連動させやすいんだよ」
「ああ……」
なんとなく理屈はわかるような気がした。
「だから逆に考えると、投げられないようにするには相手から自分の身体を少しでも離すようにするんだ。半歩でも足を引く、身体を横に向ける……ちょっと重心がズレるだけでも相手は投げるのが難しくなる。余計に力を使わなくちゃならなくなる」
おじさんは俺の前に立ち、身振りで俺に投げて来いと促す。
もちろん俺は人を投げたことなんてなかったが、ヤンキーたちにやられた状況を思い出しておじさんにそれを試してみる。
おじさんの肩を掴み、足を払いにゆく……
だが足を掛けようとした瞬間、おじさんは後ろ足を一歩引き、逆に俺の方がバランスを崩されてしまった。そのまま肩を軽く押され、気付くと俺の方がマットに転がされていた。
「……クソ」
おじさんに敵うわけがないのは当たり前なのだが、俺は思わず声を出していた。
「ははは、どうだい! まあでも完全に掴まれてしまって、逃げるスペースがない場合もある。そういう時はピンチでもあるけど逆にチャンスでもあるんだよ。自分の身体と相手の身体がそれだけ近いということは、逆に自分にとっても投げやすい状況ってことだからね」
「まあ、そうなのかもしれないですけど、いきなりそんな相手を投げるなんて……」
「まあまあ! とりあえずやってみよう!」
それから俺はおじさんと取っ組み合いの練習を始めた。