レイが倒れ込み、意識が朦朧とする中、ぼんやりと視界の端で赤黒い粒子が静かに収束していくのが見えた。ルナがその圧倒的な力を抑え込み、いつもの姿に戻っていく。メフィストは地面に崩れ落ち、もう動かない。
ルナはすぐにレイのもとへ駆け寄り、震える手でポーションを飲ませてくれた。心地よく甘い液体が喉を通り、わずかずつ体力が回復していく。意識がしっかりと戻ってきたとき、レイは気がついた。自分の頭が、優しいぬくもりの中にあったのだ。
ルナの膝に、そっと頭を乗せられていた。彼女がそばで、何も言わずに見守ってくれていたのだと気づくと、レイの胸が熱くなった。戦いの痛みも、恐怖も、この膝枕の温もりの前には消えていくようだった。
それと同時に、レイの目から自然に涙が溢れ出た。自分の弱さが、どうしようもなく悔しかった。あの時、ルナの警告を聞き入れていればこんなことにはならなかったのに…ルナの気持ちを無視して、無謀にも危険に突き進んでしまった。自分勝手な行動が彼女を危険に巻き込んでしまったことに、心の底から後悔が押し寄せてきた。
ふいに、ルナが優しくレイの涙を拭ってくれる感触があった。彼女は何も責めることなく、ただそっと寄り添い、彼の頬を撫でながら小さく微笑む。その手がレイの目元を覆い、穏やかに言葉を紡いだ。
「自分を責めないで。君はよく頑張ったわ、レイ」
その一言に、レイの心の壁が崩れ落ちた。何もかもを許してくれるその声に、彼の涙腺はさらに緩み、どうしようもなく涙が溢れてきた。
「…ルナ、ごめんな…」
やっとの思いで、彼はその言葉を口にした。かすれた声で、謝罪の一言を。すべてを抱え込んだ彼の苦しみが、彼女の優しい手に触れるたびに解きほぐされていくようだった。
「大丈夫よ…」
ルナはそう言うと、涙を流し続ける彼の頬に手を置き、何も言わずただそばに寄り添い続けた。自分を責めるレイの気持ちに、ひとつひとつ寄り添いながら、彼女は彼の心が癒えるまで、ずっと静かに見守っていた。
やがて、涙が落ち着き始め、レイの心は穏やかさを取り戻していく。彼は息を整え、静かに目を閉じた。ルナの温かいぬくもりに包まれながら、彼は少しずつ過去の重荷を手放し、再び立ち上がる決意を胸に刻んでいた。
レイがゆっくりと意識を取り戻すと、視界の隅に微かに柔らかな光が揺れているのが見えた。気づけば、ルナが優しく微笑み、安堵の表情で見つめている。
「やっと起きたのね」ルナの穏やかな声が、心に響くように聞こえた。
レイは申し訳なさでいっぱいになり、もう一度謝ろうと口を開きかける。しかし、その言葉が口から出る前に、ルナは静かに人差し指を彼の唇に当てて、首を横に振った。
「それ以上は言わないで」
ルナの表情に柔らかい微笑みが浮かぶ。その優しい眼差しに、レイの胸がじんと熱くなった。深く息をつき直し、「じゃあ…ありがとう」と一言だけ伝える。
ルナは微笑みを浮かべながら、穏やかに「どういたしまして」と返した。その瞬間、彼らの間には、言葉では表せない信頼が確かに宿っているのを感じた。プレイヤーとNPC、ただの仲間を越え、互いを理解し合う信頼が形となった。
ルナは「もう少し力を貸しておくわ」と静かに言うと、再び彼にエネルギーを送り込んだ。次の瞬間、不思議な感覚がレイの体中を駆け巡り、彼の意識が一気に覚醒する。
だが、それと同時に、思いもよらない感覚が頭を襲った。先ほどルナがメフィストと戦っていた時の記憶が、彼の中に一気に流れ込んでくるのだ。ルナから感じた圧倒的な力、絶対な力でメフィストをねじ伏せた瞬間の感覚までが、鮮明に脳裏に焼き付けられていく。
あまりに大量の情報が一気に流れ込んだため、レイは目眩を感じ、思わず体勢を崩した。足元がふらつき、頭が混乱する。ルナはそんなレイを支えながら、申し訳なさそうに肩を軽く叩いた。
「そういえば、戦闘から数時間以内に能力を移動させると、その時の記憶も一緒に流れ込むみたいなの。初めてだから、すっかり忘れてたわ」
レイは驚きに目を見開いたまま、意識が遠のくような感覚と共に彼女を見つめた。「そんなことまで可能なのか…」
ルナは穏やかに笑みを浮かべ、「それが観測者の力よ。覚えておいてね」と静かに告げた。レイは言葉の意味をかみしめながら、静かに頷く。
「わかった…忘れない」
ルナはそのまま何かを思い出したかのように少し微笑み、「でも、場所が場所だったから、観測者の力は三分の一も出していなかったのよ」とさらりと言う。その一言に、レイは再び息を呑む。何度驚かされても、ルナの実力は測り知れないと感じた。
ふと、彼らの会話が和やかな空気に包まれる中、異様な気配が場を包み始めた。二人の視線が、同時に倒れているメフィストの方へ向かう。気づけば、メフィストの体から黒いオーラが湧き上がり、まるで悪夢のように空間をねじ曲げている。
レイは身を起こし、状況を理解しようとじっと見つめた。「まさか…メフィスト…まだ生きてるのか?」
だが、それは生命の気配というよりも、何か不気味で異質な力に操られているようだった。すると、メフィストの剣が淡い赤い光を放ち、剣身に浮かぶ紋章が禍々しい輝きを見せ始める。そこから湧き上がる赤黒いオーラが、メフィストの体を無理やり持ち上げるかのようにゆっくりと起き上がらせた。
ルナは険しい表情を崩さずに、低い声で言った。「これは…ただの呪いじゃないわ」
操られるように起き上がったメフィストの目はすでに虚ろで、その視線はまるで人間らしい意志を失っていた。唇は無感情に震えながら、低く囁く。
「レイ…、ルナ…」
その声はまるで亡霊のように響き、二人に重くのしかかる。ルナとレイはすぐに身構えたが、その異様な力に背筋が凍りつくようだった。
メフィストの苦しげな声が、レイとルナの耳に届く。
「二人とも…逃げて…」
その一言に、レイは一瞬動揺しながらも武器を構え直し、必死に状況を理解しようとした。目の前で異様なオーラを纏うメフィスト。その体を覆う赤黒い闇が、まるで操り人形の糸のように彼を支配しているのが見て取れた。
すると、隣にいたルナが低い声で言った。
「彼…あの剣に操られている」
その言葉に、レイはすべてが繋がった。あの禍々しいオーラを放つ剣が、メフィストの意思をねじ曲げ、体を無理やり操っている。おそらく彼は、もっと前から何らかの精神操作を受け続けていたのだろう。
だが、どこからが彼自身の意思で、どこからが剣の意思なのかが曖昧だ。しかし、メフィストがレイとルナの名を呼んだ瞬間、確かなものが胸に湧き上がった。あの夜、一緒に過ごした時間は、メフィストの真の意志だったのだと。
レイが覚悟を決めかけているのを見て、ルナが静かに問いかけた。
「君の判断は間違いじゃなかったわ…彼は、見えない力に支配されている。それを知って、今度はどうするつもり?」
その言葉に、レイははっとした。逃げるための合図でも、諦めを促す言葉でもない。ルナの瞳には、確かな意思が宿っていた。その裏に込められた思いは明白だった。
「彼を助ける」
レイは短く頷き、剣を握り直すと視線をメフィストに戻した。その一瞬の決意が、ルナにも伝わった。
ルナは静かに一歩後ろへと下がり、優しく微笑んだ。「今度は君の番ね」と言わんばかりの表情で、レイにその場を託す。
レイは先ほどの戦闘でルナから得た経験を反芻し、自らの力の使い方が進化していることに気づいた。彼は右手を構え、意識を集中させると、周囲に黒い刃が無数に浮かび上がる。その刃は鋭く輝き、一斉にメフィストへと放たれた。
その攻撃が引き金となったのか、メフィストの手に握られた剣が突然強烈な魔力を解き放った。刃から放たれる波紋が部屋全体に広がり、圧倒的な衝撃が遺跡の天井を崩壊させる。崩れ落ちる瓦礫の間から、まるで闇を照らすかのように大きな月が姿を見せ、光が二人の頭上に降り注いだ。
咄嗟にレイは粒子を纏め上げ、壁を形成してルナと自分を守る。崩れ落ちる瓦礫の音と、魔力の波動が空間を震わせる中、レイはその剣に宿る異様な力を直感で感じ取っていた。
すると、剣から冷たい声が響いた。
「貴方達の力…実に素晴らしいわ…。でも、その力、血肉ごと我がものにしてくれる!」
その声には冷たい歓喜が混じっており、レイは背筋に寒気を覚えながらも、短剣に粒子を集め、黒い長剣へと変化させた。彼は剣先をメフィストに向け、一瞬の隙をついて粒子の力を捻じらせ、メフィストの眼前に瞬時に移動する。
「これで終わらせる…!」
レイの長剣とメフィストの剣がぶつかり合い、刃と刃が激しく火花を散らす。轟音が遺跡の空間に響き渡り、その余波で再び瓦礫が降り注ぐ。互いの剣を激しく押し合い、メフィストとの戦いが再び幕を開けた。