レイはふと目を覚ました。部屋の静けさが、彼の意識をゆっくりと現実へと引き戻す。壁に掛かった時計の針は朝の4時を指しており、部屋の窓から差し込む薄暗い光が、まだ夜明け前であることを告げていた。
まだ起きるには早い時間だと分かっていながら、レイは無意識に身を起こした。ふと、昨夜のことが頭をよぎる。深夜、ルナが部屋を出ていく音を聞いたような気がしていたのだ。彼女はあのまま無事に戻ってきたのか──その考えが浮かぶと同時に、胸の奥に不安が広がった。
彼は急いで周囲を見回し、そこで初めて気が付いた。ルナは自分の隣で静かに寝息を立てていたのだ。寝息とともに、彼女の穏やかな表情が目に映り、レイは少しホッとしたように肩の力を抜いた。
けれども、すぐにもう一つの疑問が浮かび上がる。なぜ彼女は同じベッドで寝ているのだろう。おそらく、昨夜の疲れが出て、寝ぼけてベッドを間違えたのだろうと考えたが、その姿がどこか妙に自然に見え、心の中で違和感が残る。
(まあ…、寝るベッドを間違えたんだろう)
そう納得しようとするが、ルナの安らかな寝顔にふと見入ってしまう。長いまつげが微かに震え、穏やかな呼吸に合わせて胸が上下しているその姿は、彼の記憶の中のどのNPCとも違っていた。NPCだと理解しつつも、彼女には何かしら「人」としての温かさを感じずにはいられなかった。
そのまましばらく見つめていると、レイは思わず彼女の頭に手を伸ばし、優しく撫でていた。触れた髪は柔らかく、温かな感触が手のひらに伝わる。
(…何をやってるんだ、俺)
ハッと我に返ったレイはすぐに手を引っ込め、顔を赤らめて目を逸らした。見た目だけで言えば彼より少し年下くらいの少女を、無防備な寝顔のままで撫でるなど、自分でも少し妙な気がしていたのだ。それに、彼女がNPCかどうかに関わらず、触れたときに感じた「人らしさ」にも自分の行動を戸惑わせるものがあった。
とはいえ、こうして彼女が安らかに寝息を立てている姿を見る限り、疲れているのだろうかとも考えた。昨夜、レイが眠りについてから部屋を抜け出したのが彼女の判断だったのか、それとも何かに呼ばれていたのか、真相は分からないが、今は起こさずに眠らせてあげることにした。
ルナの隣から静かにベッドを抜け出したレイは、ベッドから少し離れたところで彼女を振り返り、その寝顔を再び見つめる。仕草や表情、会話の仕方にいたるまで、どこか他のNPCとは異なる「特別な何か」が、彼女の中にあるように思えてならなかった。彼女の表情に浮かぶわずかな笑みや、言葉に感じられる優しさ、そしてときおり見せる複雑な心情の変化は、この世界のプログラムが作り出すものにしてはあまりにも自然すぎる。
(まるで、本物の人間みたいだ…)
そう考えながらも、真相は分からないままだ。彼はただ静かにその場を離れることにし、もう一度ベッドへ戻るよりも、外の空気を吸いたくなった。朝早い散歩が思いのほか気分を変えるかもしれない。部屋を出て、廊下を静かに歩き、宿の外へと向かった。
宿の外に出ると、街はまだ闇に包まれていたが、東の空がほんのりと明るくなり、夜が終わりを告げる寸前であることを知らせていた。静かな朝の空気に身を包み、レイはいつもと違うエルドリアの街を歩き始めた。
人気のない石畳の通りを歩き、昨日の昼間には見えなかった街の顔がそこにあった。静まり返った露店、外灯に照らされた道、薄暗い影を作り出す建物の輪郭──すべてが夜明け前の静寂の中で、不思議な落ち着きを放っている。
(こうして歩いてみると、この街も悪くない場所に感じるな…)
レイは思わず微笑みながら、自分がこの世界に囚われていることさえ忘れそうになる。しかし、ほんの一瞬の平和が心に安らぎをもたらしたとしても、戻るべき現実があることを彼は知っていた。
自分の帰りを待っている家族、特に祖父のことを思うと、早くこの世界から抜け出す方法を見つけなくてはならないという決意が再び胸に灯る。
ふと、辺りを見渡しながら歩いていると、街のパン屋から香ばしい匂いが漂ってきた。準備を始めたパン屋の主人が、朝の静けさの中でレイに気づき、手を振って声をかけてくれた。
「おはようございます、早いですね。散歩ですか?」
レイは少し驚いたが、にこやかな主人の表情に自然と笑みがこぼれる。「ええ、少し早く目が覚めたので、静かな街を見てみたくなって…」
パン屋の主人は新しく焼き上がったパンを差し出してくれた。「よかったら、試してみてください。朝一番のパンなんです」
レイはお礼を言い、主人が差し出してくれた温かいパンを手に取り、ひと口かじった。焼きたての柔らかなパンの香りとほんのりとした甘みが、朝の静けさと相まって、どこかほっとする感覚を彼に与えていた。
「どうですか?朝一番の焼きたてパンは、やっぱり格別でしょう?」パン屋の主人がにこやかに尋ねる。
「ええ、本当に美味しいです。なんだか、懐かしい味がします」とレイは微笑みながら答えた。
「そりゃよかった。あんたも旅の途中かい?最近、街に来る冒険者が増えてねえ。ほら、鉱山の採掘が盛んになった影響で、エルドリアも賑わいを見せてるんだよ」
「そうなんですね」レイは頷きながら、エルドリアの街が持つ魅力に少し興味が湧いてきた。
パン屋の主人は続ける。「でもねえ、最近ちょっと不思議な噂が広まってるんだ。鉱山の近くにある遺跡の話さ。昔から『触れてはいけない』って言われてた場所なんだが、どうも妙な光が見えたり、あそこに行った人が何日も帰ってこなかったりするって話を耳にしてなあ…」
レイはパンをかじりながら静かに頷いた。「遺跡に行った人が帰ってこない…その話は昨日、宿でも少し聞きました」
パン屋の主人は少し驚いた様子で「へえ、宿のおかみさんも話してたのかい?」と言い、ふむ、と考え込むように頷いた。「だったら聞いたかもしれないけど、あの遺跡は昔から“禁じられた場所”だって言われてるんだ。良く分らんが、何か良からぬ者が目覚め始めてるのかもしれないな」
レイは興味深く耳を傾けながら、その遺跡についてさらに詳しく聞き出すことにした。「その遺跡について、他に何か知っていることはありますか?例えば、昔からそこにあったものとか」
主人はしばらく考えた後、ぽつりと話し始めた。「さあねえ、俺も詳しいことは分からないが、昔はその場所が“聖なる地”として敬われていたことだけは確かだ。何かが封印されてるなんて話もあるが、噂に過ぎないしな」
レイは静かに頷きながら、その遺跡に秘められた謎を頭の中で整理した。パン屋の主人の言葉から、エルドリアの街が抱える謎の一端が少しずつ見えてきた気がした。
「ありがとう、興味深い話を聞かせてくれて助かりました」と礼を言い、レイは温かいパンをかじりながら、もう一度主人に頭を下げた。
パン屋を離れ、街の静けさの中を歩いていたレイは、背後から呼びかけられて足を止めた。
「すみません、そこのお兄さん」
妙に柔らかく、女性的な口調が耳に届く。振り向くと、目に入ったのは、スラリとした高身長の人物だった。金髪の長髪がさらりと肩にかかり、目元は狐のように細く、ほとんど目が開いているのか分からない。その顔立ちは、どこか冷ややかで人を寄せ付けない雰囲気を持ちながらも、微笑を浮かべている。
しかし声は男性的な響きがありながらも、女性のような柔らかい口調だった。レイは不意に体がこわばり、心臓が跳ね上がるのを感じた。今朝は人通りが少ないために仮面を外していたが、まさかこんな早朝に他のプレイヤーと遭遇するとは思っていなかったのだ。
それでも冷静を装い、レイは口を開いた。「俺でしょうか?どうしました?」
すると、相手はさらに柔らかい笑みを浮かべ、「貴方も冒険者の方かしら?」と尋ねてきた。その口調はしっとりとした女性のようで、微妙な違和感があるものの、話し方は親しげだったため、レイも少し気が緩んだ。
「あら、それは偶然。この時間にこの街を探索してるプレイヤーなんて滅多に出くわさないもの。」
その言葉に、レイは思わず目を伏せて苦笑した。この早朝の静けさを楽しみたくて仮面を外していたが、まさか他のプレイヤーが現れ、声をかけてくるとは予想していなかった。相手が敵意を持たない気さくな性格のようだと感じ、少しだけ緊張が解ける。
「自己紹介が遅れたわ、アタシの名前はメフィストフェレスと言うの。よろしくね」
そう言って彼──いや、彼女かもしれない──は、スラリとした手を差し出した。
「レイだ、よろしく」と手を取り挨拶を返すと、メフィストフェレスは目を細め、親しげな視線を投げかけてきた。
「それで、レイ。もし良かったら、アタシとパーティーを組んでくれないかしら?」
突然の誘いにレイは内心警戒しつつも、まずはどんなパーティーなのかと問い返す。
すると、メフィストフェレスは微笑みを崩さぬまま、少しだけ身を乗り出して声を潜めた。「行き先は、あの禁じられた場所──遺跡よ」
レイは思わず息を呑んだ。昨夜も今朝も聞かされた遺跡の噂を思い出す。その遺跡はただの観光スポットではない。この街にいる冒険者が敬遠するほどの危険な場所だと聞いていた。
「この街には、まだ力の無い者が多くてね、誰も一緒に行こうとしてくれないのよ」彼は少し寂しげに肩をすくめ、「だから強そうな貴方に声をかけたってわけ」
レイはしばらく考え込んだ。「少し考えさせてほしい」
メフィストフェレスは微笑みながら頷き、「もちろんよ。今すぐじゃなくていいわ、もし気が向いたら声をかけてちょうだい」と軽くウィンクしてフレンド依頼を送ってきた。
レイも承諾し、フレンドリストに新たな名前「メフィストフェレス」が表示された。
「それじゃあ、またね、レイ」と、さりげない一礼とともに、彼はゆったりとした足取りで去っていった。歩き去る彼の後ろ姿はどこか儚げで、影のように静かだった。
しばらくその場に立ち尽くしていたレイは、朝焼けに染まる街並みをぼんやりと見つめながら、遺跡の謎が自分のもとへと近づいていることを感じた。警戒心と好奇心が入り混じった複雑な気持ちを抱えながら、彼は宿に戻ることにした。
ルナが待つ部屋へ向かう道すがら、頭の中にはメフィストフェレスの存在が離れなかった。