気づくと、レイはすでに走り出していた。自分の中に沸き上がった嫌な予感を払拭するために、ただひたすらリストンの街を飛び出し、農場へ向かって道を駆け抜けた。昔から嫌な予感だけはよく当たる。エミリーが一緒にいた冒険者たちの不気味な笑みが頭に浮かび、胸に渦巻く不安がさらに彼を突き動かした。
「エミリーはただのNPC…それでも…」
二日間を共に過ごしただけなのに、彼女が人間と同じような感情を持っているように感じていた。自分が勝手にそう思い込んでいるだけかもしれない。それでも、彼女が示してくれた優しさや、感謝の言葉、そして笑顔は――確かに「温かさ」が宿っていた。
そんな思いを胸に、レイは人混みをかき分け、街外れの道に沿って走り続けた。そして、視界の隅に冒険者たちの姿が見えた。なぜ彼らは農場へ向かうルートから外れた場所で立ち止まっているのか?疑問が浮かんだが、近づくにつれてその理由が見えてきた。
エミリーが地面にしゃがみ込んでいる。顔を苦しげに歪め、何かに耐えている様子だった。彼女の周りには、今朝彼女に心ない言葉を投げかけた冒険者たちが立ち、嘲笑いながら彼女を取り囲んでいる。彼らの話が耳に入った瞬間、レイは血が逆流するような怒りを覚えた。
「毒針が本当に効くか試してみたら、まさか本当に効くとはな!」
「次は何の状態異常かける? それとも普通に攻撃してみるか?」
笑い声とともに、彼らは無抵抗のエミリーに次々と攻撃を加えていた。エミリーの苦しむ姿に、レイは抑えきれない怒りを感じ、一気に3人を押しのけてエミリーに駆け寄った。彼女の上には、赤く点滅するHPバーが表示され、残りわずかで尽きようとしていた。
「エミリー、今すぐポーションを…!」
レイは急いでポーションを取り出し、彼女に差し出そうとした。しかし、一瞬の隙を突かれて、シーフのジョブの男が手際よくポーションを奪い取ってしまった。
「今、遊んでる最中なんだよ。邪魔しないでくれる?」
シーフの冷笑に、他の二人も笑い出す。その中で、剣士の男が近づき、レイの胸元に盾を突き出した。
「シールドバッシュ!」
その衝撃は、ビギナークラスのレイには耐えきれないほど強烈だった。体が弾き飛ばされ、地面に叩きつけられた瞬間、視界の端に自分のHPバーが赤く点滅し、わずかに残っているのが見えた。
「何だよ、弱すぎだろ」
3人の笑い声が遠くで響き、まるで地獄の底にいるような感覚に襲われる。レイは力なく地面に手をつき、苦しい息をつきながら再び立ち上がろうとした。朦朧とする意識の中、彼は必死に声を振り絞った。
「…お願いです、エミリーを助けてあげてください。お金でも…何でも渡しますから…」
その懇願に、3人は一層嘲り笑った。リーダー格の魔法使いの男が冷笑を浮かべながら言い放つ。
「本当気持ち悪いんだよ、そういうの。お前、さっさとこのゲームやめろよ。全部俺たちがもらってやるからさ」
そう言い放つと、男は火の玉を作り出し、レイに向かって放った。燃え上がる炎がレイの体を包み込み、一瞬にしてHPがゼロになるのを感じた。視界が暗転し、「街にリスポーンしますか?」というメッセージが浮かぶ。
リスポーン時間10分。画面に表示されたその数字が残酷なまでに長く思えた。そして、視界の隅には「デスペナルティ:エミリーのアミュレットとフェラル・ダガーをドロップしました」と表示される。
大切にしていたエミリーからの贈り物が、無慈悲にもその場に落ちてしまった。3人の冒険者たちは、レイのドロップ品を拾い上げ、楽しげに笑っている。
「ビギナークラス狩りも悪くねえな。ドロップもおいしいし、他のやつも狙ってみるか?」
レイの怒りと無力感が体中に広がるが、瀕死の状態では声も出せない。ただ、眼前で起こっている惨状を眺めるしかなかった。彼らが最後のトドメをエミリーに向けて振り上げたその時、アナウンスが流れた。
「イーストウインド平原にてプレイヤーキラー発生。赤ネームキャラクターを倒した者には懸賞金10000を付与します」
リーダー格の魔法使いの名前が赤く染まるのを見て、彼らは事の重大さに気づき、慌ててその場を去り、近くの森の中へと姿を消していった。瀕死のレイとエミリーをその場に残し、虚しくも静寂が訪れた。
息も絶え絶えのエミリーが、かすかに動きながら弱々しい声で語りかける。
「レイさん…聞こえますか…?この世界に生まれて、あなたに会えたことが…私にとって一番の幸せでした…。もっと一緒にいたかったけれど…ダメみたいです…。優しくしてくれて…ありがとう…」
その声と共に、エミリーの体が徐々に薄れていく。彼女の姿が完全に消えた瞬間、システムのアナウンスが流れた。
「リストンの街のエミリーがプレイヤーにより殺害されました。エミリーの存在は世界から消えました」
その言葉に、レイの胸が切り裂かれるような痛みを感じた。NPCであっても、リスポーンしない――それがこの世界の残酷なルールであることを、彼は初めて知った。あふれる涙を止めることができず、悔しさと無力感が彼の心を支配していく。
「もし…あの時、転職よりエミリーを優先していれば…」
レイの心には、あの冒険者たちへのどうしようもない怒りと、手遅れになってしまった後悔が渦巻いた。しかし、今の彼には何もできることがない。彼は地面に倒れたまま、喉が痛くなるほど泣き続けた。
気づくと、レイの強制リスポーン時間は残り1分を切っていた。視界の片隅に浮かぶカウントダウンが、どこか冷たく、無機質に感じられる。数字は淡々と減っていくが、レイの心には虚無感が広がるばかりだった。
すでに、何もかもがどうでもよくなっていた。彼の心の中には、エミリーを守れなかった無力感と、自分自身への失望が渦巻いている。助けるべきだった、守るべきだった――彼の脳裏にエミリーの笑顔が浮かぶたびに、胸の奥に鋭い痛みが突き刺さるようだった。エミリーの姿が消え、もう二度と戻らないという事実が、彼の心を重く押しつぶしていた。
「…もう、ログアウトしてしまおう。しばらく、VAOから離れた方がいい」
自分にそう言い聞かせ、彼は視線をカウントダウンからそらす。そしてカウントダウンが残り10秒を切る。小さく息をつくと同時に、エミリーの記憶が頭をよぎり、喉が苦しくなった。エミリーの温かい笑顔、彼女の言葉――そのすべてが、胸の奥深くに痛みを残している。今まで生きてきた中でも、これほどまでに苦しい思いをしたのは初めてかもしれない。
カウントダウンが0になった瞬間、視界が真っ暗に変わり、次の瞬間にはロード画面が浮かび上がった。
「…もうログアウトしよう」
レイは、自分の声が空しく響くのを感じながら、淡々とログアウトのウィンドウを呼び出し、【はい】を選択した。しかし、画面にノイズが走り、再びロード画面に戻される。眉をひそめ、もう一度【はい】を選ぶが、何も起きない。不安が胸の奥に広がり、試しに【いいえ】を選択してみても、画面は変わらなかった。
「どうなってるんだ…?」
思わず口に出した言葉は、虚空に吸い込まれるように消えていった。ローディングバーも止まってしまい、画面は無機質な静寂の中に取り残されたまま動かない。彼の視界に映るのはただ、静まり返ったロード画面と、動かないローディングバーだけだった。
「バグ…か?」
そう自分に言い聞かせ、しばらく待ってみるが、変化の兆しはない。不安が胸の奥でざわつき始め、ついにはヘッドギアを外して直接スタッフを呼ぼうと決心した。しかし、その瞬間、さらなる異変がレイを襲った。
――体が動かない。
指先一つ、まぶた一つ動かせない。いや、むしろ自分の「体」という感覚そのものが消えている。視界はそのまま浮かんでいるが、手足や胴体といった体の存在を一切感じられなかった。まるで、意識だけがこの真っ暗な世界に取り残されたような感覚に襲われ、恐怖が背筋を駆け抜ける。
「…夢、なのか…?」
言葉を呟くが、耳にも届かないようで、ただ心の中で空しく響くだけだった。目を閉じようとしても瞼の感覚はなく、周囲を見渡そうにも視界は一向に変わらない。あまりにもリアルすぎるこの異常な体験に、レイは胸が締め付けられるような恐怖に襲われた。まるで、VAOそのものに囚われているかのような気がした。
その時だった。静寂を破るように、女性の声がどこからともなく響き渡る。
「6人の王の意向により、現在VAOにいる全プレイヤーは隔離対象となりました」
冷たく、淡々とした声だった。その意味を理解するのに少し時間がかかった。隔離――いま自分が体験しているこの異常な状況は、この「隔離」によるものだろうか?隔離されているために体の感覚が失われ、意識だけがこの奇妙な空間に取り残されているのだろうか?
「これは一体…」
かすかな不安が恐怖に変わる。その時、視界が一層暗くなり、強烈な光に包まれた。目を閉じようとするが、体は動かず、ただその眩しさに耐えるしかなかった。あまりの光に意識が白く焼きつくような感覚に襲われ、彼の思考は一瞬途切れそうになる。
次の瞬間、光が消え、目の前には異様な光景が広がっていた。レイはそこがどこか理解できず、ただ呆然と立ち尽くす。
周囲には、無数のモニターが並んでいた。幾重にも積み重なった巨大な画面が、暗闇の中にぼんやりと輝いている。まるで監視室のように見えるその空間は、不気味なほど静かで、レイの心に不安を増幅させる。
自分の意識が、ゲーム内に囚われてしまったような感覚――その理解が、彼の胸に重くのしかかった。