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第5話 「焦り」

レイが再び仮想世界で目覚めると、昨日ログアウトした場所――リストンの街の外れに立っていた。2日目のスタートに興奮が湧き上がり、今日こそは転職を果たそうと意気込む。幸運なことに、朝早く接続できたおかげで冒険家ギルドの前にはまだ行列はなく、人影もまばらだ。これは好機だと、レイは急ぎ足でギルドの扉を押し開けた。


ギルドの内部は、彼の予想を上回る壮観さだった。石造りの高い天井が広がり、木造のテーブルと椅子が整然と並ぶその光景は、まるで大規模な酒場を思わせる。カウンターには2人の受付嬢が立ち、プレイヤーたちに笑顔で挨拶をしている。ギルドに漂う香ばしいパンの匂いと、低く流れる音楽が、不思議と彼の心を落ち着かせた。


受付に向かおうとしたその時、ふと視線を動かした先に見覚えのある姿を見つける。部屋の隅で、何かを探すようにキョロキョロと周囲を見渡すエミリーがいた。彼女の存在を確認すると、レイの心が不思議な温かさで満たされる。NPCの彼女がまるで人間のように見え、親しみ深さが胸に湧き上がった。昨日の冒険を共にした彼女が、またこの場にいるのが嬉しくてたまらない。


「エミリー…!」


声をかけたくなる気持ちを抑えつつ、レイは受付へと進もうとしたが、彼の体は自然とエミリーの方に向かっていた。彼女が困っている姿を見て放っておけなかったのだ。そして、自分がNPCであるエミリーを普通の「人間」として見ていることに気づき、少し戸惑った。彼女はただのAIではなく、感情を持っているかのようにさえ思えたからだ。


「レイさん、こんにちは!また会えましたね!」


レイが近づくと、エミリーは明るい笑顔で手を振ってくれた。彼も自然と手を振り返し、彼女の笑顔に心が和む。いつの間にか、彼にとってエミリーはただのNPCではなく、親しい友人のような存在になっていた。


「エミリー、何か困ってるの?」


「実は…」エミリーは少し恥ずかしそうに、森で薬草を採取するための手伝いを探していることを話した。薬草の収集自体は単純な仕事だが、冒険者が捕まらず困っているらしい。彼女が申し訳なさそうに語る姿がどこか健気で、レイは「やってあげたい」という気持ちに自然と駆られる。


その時、ギルドに入ってきた冒険者たちが、わざと大きな声で話し始めた。


「あのエミリーってNPC、どうでもいいクエストばっかり押し付けてくるんだよな。まじで時間の無駄だわ。」


「チュートリアルでさえ面倒くさいし、あいつの依頼なんてやる価値ないよな。」


その言葉がエミリーの耳にも入ったのだろう。彼女は気まずそうにうつむき、小さく肩を落とした。そんなエミリーの姿を目にして、レイは心の中で葛藤する。このクエストが本当に自分にとって価値のあるものか考えた一瞬、自分の気持ちを再確認するように深呼吸をし、意を決してクエスト受注ウィンドウの確認ボタンを押した。


「エミリー、俺がその薬草、取りに行ってくるよ」


レイが受注ボタンを押すと、エミリーの表情が一気に明るくなり、彼に向かって深々とお辞儀をする。


「本当にありがとうございます、レイさん。助かります…!」


エミリーの顔に広がった笑顔を見て、レイは心の底から「受けてよかった」と思った。そして、彼女が指差した地図上のポイントに表示されたのは、昨日訪れた森の近く。どうやらその付近に薬草が多く生えているらしい。彼はギルドを後にし、再びエミリーのために森へと歩き出した。


道中、レイの心には様々な思いが駆け巡る。エミリーがただのAIであるとは思えない気持ち、そして彼女の笑顔がもたらした満足感。彼の冒険は、ただのゲームの枠を超えて、現実と仮想の狭間で新しい感覚を彼に与え始めていた。


薬草を探すための道のりは驚くほど穏やかで、昨日のような激闘は影を潜めていた。森の中に入っても、目にするのはスライムや野生の兎のような小さなモンスターばかり。レイは「翡翠の薬草」を見つけると、慎重に摘み取り、大事に保管した。その時、ふと「これはただのお使いクエストだな」と感じ、少し拍子抜けしたが、エミリーが困っていたのを思い出し、微笑みながら薬草を握り締めた。


帰り道も平和そのもので、リストンの街が近づくにつれてレイの胸には安堵が広がっていった。街の門の前には、相変わらず元気いっぱいのエミリーが待っていて、レイの姿を見つけるなり大きく手を振っている。彼女の無邪気で明るい笑顔が、なんとも言えない温かさをレイに与えた。


「レイさん、おかえりなさい!」


「ただいま、エミリー。薬草、持ってきたよ」


レイは薬草を差し出し、エミリーがそれを受け取ると、彼女は心から嬉しそうに笑顔を浮かべた。クエスト達成の表示が視界に現れ、報酬として100ゴールドと「エミリーのアミュレット」が手元に加わる。アミュレットを見て、レイは不思議な温かさと愛着を覚えた。それはエミリーの名前が刻まれた、彼女自身が手作りしたという小さな護符であり、彼女からの感謝の証だった。


「このアミュレット、私がずっと大事にしていたものなんです」とエミリーは恥ずかしそうに説明した。「レイさんにこれをつけていてほしいんです。きっと…お守りになると思うので」


レイはその言葉を心に刻むように、アミュレットを握りしめた。報酬の価値やスキルはお世辞にも強いとは言えないが、それ以上に彼にとって特別な意味を持っていた。彼女の気持ちがこもった装備品は、彼にとって単なるアイテム以上の存在になっていた。


さらに、レイはレベルアップの通知を受け取り、レベル4に到達。HPも40から70に増え、アミュレットの効果で100に到達する。これで自分が他の冒険者に少し近づけた気がして、彼は小さな成長を実感した。


「本当に、ありがとうございます、レイさん。次からは、私のお願いではなく、どうか転職を優先してくださいね」とエミリーは深々と頭を下げ、彼の立場を気遣ってくれる。


その瞬間、レイの胸に温かいものが広がった。仮想世界の中で、ただのNPCに過ぎないはずのエミリーが、まるで生身の人間のように思いやりと感謝の気持ちを表現してくれる。それはただのプログラムではなく、感情を持った存在のように感じられ、彼の心を揺さぶった。


エミリーは再び頭を下げると、笑顔を浮かべてその場を離れた。去り際の背中は、どこか愛おしさすら感じさせるもので、レイは思わず見送ってしまった。


「次もまた、あの笑顔が見られるといいな…」


そう思いながら、レイは再び転職のために冒険家ギルドへと向かい、長蛇の列に並んだ。エミリーのアミュレットを胸に感じながら、彼の心には新たな決意と小さな期待が芽生え始めていた。


レイは、冒険家ギルドにやっとの思いで到着し、長蛇の列の最後尾に並んだ。列は大通りにまで伸び、プレイヤーたちのざわめきがギルド内に絶え間なく響いている。少しずつ進むとはいえ、一歩踏み出すたびに体力が削られていくようで、レイの表情には疲れの色が浮かんでいた。転職を果たし、他のプレイヤーたちのように新たなスキルを手に入れたい――その気持ちを胸に、彼は一歩一歩を待ち続けた。


周りの冒険者たちは、友人と話しながら過ごす者、待ち時間を利用してステータスや装備を確認する者、もしくは食事をしながら列が進むのを待つ者など、思い思いに時間を潰していた。しかし、レイはその光景を眺めつつ、内心では焦りが募っていた。「このままじっと待つしかないのか…」その気持ちをぐっと抑えつつ、彼は列の進むのを見守った。


列は少しずつ、しかしじれったいほどの遅さで進んでいった。立ちっぱなしで足も重くなり、辺りを見回しても同じような風景が広がるばかり。彼の頭の中には、これから手に入れる職業やスキル、どんな冒険が待っているのか――期待と不安が交錯し、時間が経つたびにその思いが増幅していった。


そうして待ち続けていると、ふいに冒険者ギルドの扉が大きく開き、見覚えのあるエミリーが慌ただしく飛び込んでくるのが見えた。いつも穏やかな彼女の表情は消え去り、顔には緊張と焦燥が浮かんでいる。彼女は周囲の冒険者たちに話しかけ、懸命に何かを頼んでいるようだった。しかし、彼女の訴えに耳を傾ける者はおらず、周りの冒険者たちは次々に首を振り、彼女を無視している様子だった。


レイは列を離れずに聞き耳を立ててみると、エミリーが何度も「母が危ないんです、どうか助けてください」と訴えているのが聞こえてきた。彼女の家族が経営する農場がモンスターの襲撃を受け、母親が危険な状態にあるらしい。「緊急クエスト」――レイはそう直感したが、それにも関わらず、周りの冒険者たちはまるで興味を示さない。誰一人として手を貸そうとせず、エミリーの言葉は虚しく響くだけだった。


レイの心は揺れていた。彼女の困惑した顔や必死の訴えに胸が締め付けられるようだったが、それでも足が動かなかった。転職の列を何度も並び直し、待ち続けてきた自分の努力を思い出す。そして、エミリー自身も昨日「転職を優先して」と告げたことも頭をよぎる。今またクエストに出れば、今日も転職できずに終わってしまい、他のプレイヤーとの距離が広がるばかりだ。


「俺は…どうすればいいんだ…」


レイは心の中で葛藤し、苦悩を滲ませた表情でエミリーを見つめた。彼女の困惑した顔が目に入るたび、心が揺れ、しかし一歩踏み出すことができない。背中には他のプレイヤーたちが順番を待つ緊張感が漂い、どうするべきか決断を迫られていた。


その時、今朝ギルドにやってきて、エミリーに心ない言葉を浴びせていた数人の冒険者が、彼女に近づき、嫌らしい笑みを浮かべながら話しかけた。彼らはわざとらしくエミリーに聞こえるように大声で話し、「いいからそのクエスト、俺たちがやってやるよ」と受注していく。その言葉の端々には、エミリーをからかうような意図が感じられ、周囲の冒険者も嫌悪感を抱いたのか、視線をそらしている者も多かった。


レイの中に嫌な予感が芽生えた。今朝あんなに酷いことを言っていた連中が、真剣にエミリーのクエストをこなすとは到底思えなかった。何か悪意を含んだ目的があるように感じられ、レイの心がざわめく。ギルドを出て行くエミリーとその冒険者たちの後ろ姿を見つめながら、胸の中にはどこか不安な気持ちが広がっていくのを感じた。


「…このまま見過ごしていいのか?」


レイは拳を握りしめ、自分に問いかける。転職か、エミリーか――次に取るべき行動を決めかね、心は揺れ動いた。列を進む冒険者たちの背中が彼を引き戻そうとするが、エミリーを助けるべきだという強い気持ちも湧き上がってくる。そして次第に、彼の心は一つの決意へと向かっていった。

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