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第38話 9月定例議会 爆弾投下

9月最終金曜日。

 今日から金沢市議会9月定例議会が開会される。


 小鳥と近江隆之介の住む302号室は犀川からの風が涼しく、夜は窓をほんの少し開けておけばそれで快適に過ごす事が出来る。小鳥モチーフのモビールがゆらゆらと揺れ、階下の風鈴の音がチリンチリンと響く。


「・・・・・・ん?」


 朝、肌寒さに目が覚めると隣に近江隆之介の背中は無かった。頭上を手探りノーフレームの眼鏡を掛けて壁掛けの時計を見るとまだ5:30と外もまだ白々としたそんな時間帯だ。タオルケットで素裸の胸を隠し上半身を起こすとシャワールームから水音が聞こえ、キュッ、バタン、ギィ、頭をタオルで拭きながら近江隆之介が出て来た。



「お、起こした?すまねぇ」

「それは良いんですけど、せめてパンツくらい履いて下さい」

「もう見慣れたろ」

「そういう問題じゃないです」


ぎしっ

 パイン材のベッドフレームが軋み、近江隆之介が小鳥ににじり寄った。



「ちょ」

「ちょ、も何もねえって」

「また遅れますよ!朝は・・・しないっ」



 濡れた髪の毛が首筋を伝い、下へ下へと降りてゆく。



「あっ」


 小鳥は頬を赤らめた。そこで指が止まった。近江隆之介はニヤリと笑ってこれでお終いと、小鳥の鼻先に口付けた。



「え」

「残念でした、この続きはまた今度」


「え」

「小鳥パワーチャージ完了ってな」

「う、うん」



 身体を離した近江隆之介はボクサーパンツを履くとインナーを被り、白いYシャツのボタンを留め始めた。小鳥の隣に腰掛けると靴下、そして濃紺のスラックスを履きジッパーを上げ、カチャカチャとベルトを締める。



「チャージって」



 臙脂色のネクタイを締める。大きな身振りでスーツジャケットを羽織り洗面所に向かう。いつもの整髪料、グリーンウッドの香り。髪型を整え、パイン材の姿見で全身をチェックしてパラパラと毛先を散らす。久我今日子の第一秘書の完成。その手はビジネスリュックを掴んだ。



「じゃ、姉ちゃん迎えに行くから、先出るわ」

「うん」

「行って来るわ、てか、また後でな」

「うん、行ってらっしゃい」」



 真剣な表情で臙脂色のネクタイを締めた近江隆之介は投げキッスを二つ残して出勤して行った。



「また今度って」



 バージョンアップした抱擁妖怪も気を引き締める、9月定例議会が始まる。


キーンコーンカーンコーン

キーンコーンカーンコーン



 金沢市役所に始業のチャイムが鳴り響く。エレベーターの黄色い丸いランプが5、6、7階と上昇する。中から傾れる有権者や新聞記者の足が紺色のふかふかのカーペットを踏み締め議会傍聴席受付へと向かう。



「それでは、行きましょう」

「久我くんのお手並み拝見といきますか」

「大丈夫ですよ、あの久我さんですから」

「そうですね」



 併し、言葉を交わす田辺、藤野両議員の表情は何処か堅かった。手にバインダーと白い紙の束を持ち椅子から立ち上がる。昨日、小鳥がコピーした書類だ。



「それじゃ、小鳥くん、留守番頼むね」

「はい」

「久我さんの勇姿、テレビで見ていてね」

「はい!」



 国主党9名、自主党2名の調べ上げた証拠、爆弾とは一体何か、小鳥にはさっぱり分からなかったがこの日の為に数ヶ月を費やして来た。議員控室のテレビのチャンネルを議会中継に合わせ、ガタガタとパイプ椅子を引き摺り出しその前に座った。



(あ、扉、閉めておかないと)



 小鳥は6月定例議会の際、議会傍聴にそぐわない風体の有権者に議員秘書と間違えられ絡まれた。その時、偶然その場に居合わせた近江隆之介に助けられた。



(ちゃんと扉閉めとけ)



 けれどあれは偶然ではなかった。近江隆之介はいつも小鳥の間近に居て、その都度、窮地から救っていたに違いなかった。議員控室扉のドアノブに手を掛けると、外側から押される感触、そして黒い革靴が隙間から現れた。



「おう、おはよう」

「あ、はい。おはようございます」



 近江隆之介だった。久我今日子の自宅まで迎えに行き、市役所まで送り届け、公用車を駐車スペースに片付けて7階まで階段を駆け上がって来たのだろう。額に汗が滲み、肩で息をしている。



「ま、間に合ったか?」

「はい、まだ始まっていません」



 テレビの画面には、議長や市長に深々と頭を下げ、次々と議場に足を踏み入れる議員の姿があった。田辺、藤野も着席し、議員名か書かれた氏名標を立ててバインダーを開いている。


 そして議場入り口に凛とした菖蒲の花が咲いた。いつもは豪奢な身なりの久我今日子だが、今日は違った。深臙脂の議員バッジを胸に、紺色膝丈のタイトなスーツ、白い開襟シャツ、黒いローヒールパンプス、細い黒縁横長眼鏡、豊かな巻き髪も後ろで一つに纏め、紺色の地味なバレッタで留めている。



「姉ちゃん、化けただろう」

「すごい。議員さんに見える」

「そりゃ失礼だろ」

「ご、ごめんなさい」



 深々とお辞儀をしたその目は鋭く議長席を睨んでいるようにも見えた。



「あ、あの人」

「あぁ、キツネな。あいつおまえに言い寄っただろ」

「は、はい」



 思い出しても身震いがする、煙草臭い息が耳元に掛かり、太ももの間に割り込んだスラックスの感触が蘇る。



「あんな人が議会で一番偉い人とか、信じられません」

「まぁ見てなって」

「はい?」



 楠木 大吾くすのきだいご、通称キツネが久我今日子を一瞥し、不快感を覚えるような目つきでその身体のラインをなぞり上げた。



「起立、礼!」



 9月定例議会が開会された。


 静まり返った廊下、自主党議員控え室のテレビの前には、議会中継を見守る近江隆之介と小鳥の姿があった。緊張でパイプ椅子がぎしっと鳴った。


 議会での質疑応答は大方の流れはあらかじめ議会事務局に提出され、市長や議会事務局長などの返答も事前に準備されている。下水道処理施設の不備、産業廃棄物埋立予定地の賛否、子ども支援政策の今後の課題など粛々と答弁が行われ議会はそのまま終了という体を成していた。



「あれ?近江さん、もう終わっちゃいそうですよ?」

「これからだよ」

「これから、ですか?」



 こで遂に久我今日子が手を挙げた。



「久我くん。どうされましたか?」

「議長、ひとつお伺いしたい件があります」

「それは事務局を通して」

「通せば有耶無耶になる、そう判断しました」



 国主党8名、自主党の田辺五郎、藤野建が次々と立ち上がった。



「これは、どういう事だね。座りなさい」



 立ち上がった議員が手元に持っていた資料を各議席に配布して回り始めた。議場はざわめき、有権者が座る傍聴席も何だ何だと身を乗り出した。狼狽した市長が議会事務局長の肩を叩き、耳元で何やら囁いているようだ。議会中継のカメラは壇上を写して居るので久我今日子の姿は見えず、声だけが議場に響いていた。



「久我さんの姿が見えませんよ。ど、どうします?」

「傍聴席に入れるかどうか聞いてみるか」



 近江隆之介は一旦廊下に出たがお手上げだという顔で戻って来た。



「途中入場は出来ねぇとさ」

「近江さんでも駄目なんですか」

「決まりだからな、しゃーねぇ。ここで見てるしかないな」



 すると議会中継画面に久我今日子が現れた。壇上には上がらず、楠木大吾議長を見上げる姿勢で前に立った。紺色のスーツが赤いカーペットに映える。



「マジか」

「久我さん、かっこいい」

「いや、駄目だろ」



 久我今日子は資料を市長、議会事務局長、その他の役職、壇上のキツネ楠木大吾へと手渡した。キツネの顔色が変わった。



「これは国主党一部議員の政務活動費について調査したものです」



 老眼鏡を掛けて資料をペラペラと捲っていた重鎮議員たちが顔を見合わせ動きが忙しなくなり、隣に座る議員同士が耳打ちする姿もあった。




※政務活動費

地方議員の調査、研究活動費、陳情に係る費用、地域住民との相談会経費などに充てられ、議員報酬(一般でいうところの給与)とは別に支給される。

政務活動費は事前(前払い)に一定額、自治体から支給され使わなかった政務活動費は自治体に返却する必要がある。





 これまで田辺五郎、藤野建、久我今日子らがとして証拠を集めていたのは国主党一部議員の政務活動費架空請求についてだった。


 当初は一般市民の善意の告発に端を発し、野党である自主党の田辺と藤野が 議会事務局に対し ”情報公開請求” を行い、国主党議員の領収書や報告書を取り寄せ、より怪しげな政務活動費を洗い出した。


 然し乍ら、それらの不正を正すには人数が少な過ぎた。そこで藤野は敵対会派(国主党)の久我今日子に協力を依頼した。その後、国主党の善意ある議員8名と共に不正の事実を調査し、9月定例議会、この告発の場に至った。


 近江隆之介や小鳥が山のような資料をコピーし、色とりどりの付箋を貼っていたのはその確認作業の一端だった。



「わぁ。久我さん、堂々としてますね」

「女性議員だからってジジイ共に舐められたく無いんだと」

「なるほど」

「いつものギラギラした服やケバケバしい化粧は戦闘服らしいぞ」

「戦闘服」

「おまえ、あんな女になるなよ」

「近江さんがいい加減な事したらギラギラするかもしれませんよ」

「何だよ、いい加減って」

「う、浮気とか、歓送迎会で女の人とベタベタするとか!」

「しねぇよ。信用ねぇなぁ」

「・・・・・」

「何だよ、その目は」




 その戦闘服を脱いだ菖蒲の花は穏やかに、激しさを奥底に隠した重みのある声で手にした資料を淡々と読み上げた。



「3ページをご覧ください。令和2年10月20日、この市政報告会には150名の市民参加があったと記載がありますが実際、この会場、商工会議所の最大収容人数は100名、明らかにキャパシティーを超えています」


「次に、令和2年11月28日、同年12月15日、令和3年3月20日、同年5月29日、数箇所の公民館での会合が記載されていますが事実、その様な会合は開かれていません。からの市政報告会の疑いがあります」



 この調査対象とされている議員の顔は青ざめた。



「5ページ、該当議員の市政報告会資料作成ですが同じ印刷業者に依頼、複数枚の金額部分白紙の領収書の存在が明らかになりました。白紙の領収書には後日、金額が書き加えられています」



 別の議員は視線を膝の上に落とす。



「6ページ、こちらの領収書ですが、印刷業者が複数社であるにも関わらず金額の部分、ご覧下さい。どれも同じ筆跡である事が確認されます。トレース画像を添付しました」



 もう1人の議員はポケットから派手派手しい黒に黄色のペイズリー柄のハンカチを取り出し、随分と寂しくなった額の汗を拭っている。



「12ページ、令和1年度4月から令和3年度3月までの複数回の視察ですが新幹線利用区間の切符の紛失、また報告された宿泊先ホテルのチェックインが確認出来ませんでした。皆さまどちらに出張されたのでしょうか」



 複数名の議員が震える手で資料を捲り、机に肘を突き頭を抱える姿もあった。




「次に、楠木議長にお伺いします」

「な、何だね」


「19ページをご覧下さい。令和1年度から令和3年度の領収書ですが、全ての領収書の一の位、0が同じ筆跡で書き足されています」

「そ、そんな筈はない」

「全ての領収書をトレースした結果、間違いないと思われますが如何でしょうか?」

「う」




 傍聴席から数名のスーツ姿の男性が慌ただしく退出した。新聞記者だ。また、これまで支持して来た議員の不正行為と思われる告発に、彼方此方から戸惑う声が漏れ聞こえたが、うんうんと頷く数名の有権者の中にはガッツポーズをする者も居り、警備員にその動きを制止されていた。



「以上です」



 久我今日子はそう言い会釈の後、自席へと戻った。これが、田辺五郎と藤野建の表情は実に晴れやかなものとなった。


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